いつまでも自己限定しきれない我々の「共通の根拠」を認めてみたいー木村敏の自己論をめぐってー

我々は普通、「私」が他でもない「私」であること、つまり、1=1は1=1でしかないことを疑いようのない真理として、自明の事実とみなしている。

この定理が崩れるとき、つまり、1=が「1」を導出せず、5でも犬でも青色でも∞にもなりうる事態は正常な精神ではまずありえない。木村敏によれば、これこそ分裂病の根源的事態に他ならず、自明性の不成立は「自己の自己性にかかわる自明性の喪失」と表される。その世界では1=1が成り立たず、「私」が5でも犬でも∞でも青色でもあり、宇宙にもなってしまうのである。

「我々は普通、自己が自己であるこということに対して絶対的な信頼をおき、自己は自己自身にとって疑問の余地なく親しいものであり、自己は全く自明的に自己自身である」(『木村敏著作集1 初期自己論・分裂病論』, pp.346-347)

木村先生はそう言われるが、しかし果たしてそうなのだろうか。
以前、『異常の構造』を読んだ時にも同じことを考えたが、自己が自己自身に対して紛れもなく自明であること、私を平然と「私」と名乗ることがそのような前提のもとにあるとはどうしても思えないのである。話をわかりやすくするためだろうが、木村先生は「正常」という言葉を「1=1が自明であること」という前提に基づいて語るため、『異常の構造』では「正常」という単語が登場するたびにいちいち納得がいかず、むしろ「異常」の方に親しみを持てて、ここでの「異常」を「異常」と見なす論理展開にいまひとつ共感ができなかった。

どちらかというと、というか確実に、私が私以外の何者でもない世界、同一律で覆われた世界より、私が私でありながらも私が私であることがいつ何時破られてしまう可能性が否定しきれない世界の方に深く魅了される。私=私ではなく、私=5=犬=∞=✴︎=・・・といった、無礙に姿形を変えては別のあり方にめくるめく羽ばたいていく世界の側に、いのちの解放感をおぼえ、「ほんもの」の血通った脈動を感じておのずとうれしくなってしまう。
もちろん私は、人間であって犬ではないが、別に犬であってなおかつ人間であってもよいと思うし、ふとした瞬間にそうならないとも限らないと思う。散歩中、目に止まった道路沿いに生えるエノコログサが風にたなびく様子をじっと眺めているうちに「犬かもしれない」などとふっと観念がよぎり、自分で自分を不信がるぐらいでいい。なぜなら、その方が美しいし、おもしろいから。


以前、「つながれなさ」の所以を考えたときに西田幾多郎の用語を引用して「絶対無からの自己限定が甘い(絶対無を後方に引きずっている)」といった説明をした。

正直なところこれだけでは大半の人に伝わらないと思うが、木村先生が分裂病の根源的発生因と仮定する「共通の存在根拠(メタコイノン)からの自覚の不成立」、「自己の個別化の喪失」とシステムは(図式的に示せば)同じである。ただし、木村先生の中ではこうした事態は正常人では決して起こりえず、気質的、環境的なものが相互に絡み合った結果としての分裂病特有のただならぬ状態であるという主張が一貫している一方、私の見解では「そんなこともないのではないか」というのが実感である。自己の個別化は存外おぼつかないものなのではないか、という些細な疑問を発端としているため、力点には違いがある。

(精神病圏ではない)健常な精神においても「自己の個別化」の障害がありうるとすれば、可能な説明の仕方はいくつかあるだろう。パッと思いつくものでは、① 知能ないし特性的に1=1の明確な分化が難しい、 ② 同一律の蝶番がゆるくて解体されやすい、 ③現在とは異なる現在の可能性」が前景化しやすい などが挙げられるだろうか。

もちろん、事態は上記のいずれか一つに当てはまるというわけではなく、同一律のほつれやすさは1=1という基本構造の不安定さを意味するし、その背後には紛れもない「現に」の「オモテ」に対して「非-現に」の「ウラ」が「現に」を転覆させんと背中につきまとうような状態が常態化していることをも指している。そのような意味で、上3つは「私のままならなさ」という同じ現象に集約されるともいえる。

いずれにせよ、一般人口の中に「命題AはAである(1=1)」という同一律への根源的違和を感じている者は少なくないと思うのである。
近頃はそのような問題意識から、発達障害(高機能自閉症)や離人症、ひいてはASD者の没我・溶融的な解離感覚の事例を掘り下げることができるのではないかと考えている。かつてスキゾフレニーが一時代の思想に大きな示唆を与えたように、シゾの文脈で考えられていた人間の極北のようなアポリアを、大衆に紛れつつ地味に、しかし切実な「つながれなさ」や「ズレ」を感じて迷う、発達障害的な感覚に重ね合わせてみるという読みの試みをしたらおもしろいし、そこで「哲学のふだんづかい」を実践してみたい。


さて、先ほど前置きなく「同一律の蝶番」という表現を出してしまったが、ここでいう「同一律の蝶番」とは「<これ>があれでもなくそれでもなく<これ>である」という心的参照枠と外界の事実が一致している程度である。

「蝶番」が正常に機能しているおかげで、我々は対象がどのような様相をもってあらわれ、こちらにどのような仕方でいかなる作用を及ぼすかについて、ある程度の予測を持って準備対応することができる。それによって、世界を一定に対象化するとともに、安定した距離間を保つことが可能になる。

ところがこの「蝶番」は、不意打ち的な体験によって突如外れることがある。親族の突然死や自身の病気告知、被災など予期せぬ事態に突如巻き込まれた場合には普段の参照枠が役立たなくなり、一時的な感情喪失・現実感のなさや離人状態に陥ることは感覚的に理解できるだろう。
その一方で、危機イベントや特定の外発的要因にかかわらず、「特段理由もないがどうやっても蝶番が弱い(=自己限定が甘い)」場合というのがある。神経一本でギリギリつながった取れかけの乳歯を舌でいじり続ける気持ち悪さのように、くっついてるのか外れているのかよくわからないとしか言いようがない、宙ブラの存在者の状態が考えられるのである。

ラカンがシニフィアンーシニフィエの結びつきについて、「クッションの綴じ目」という表現をしており、言い得て妙だなあと思った記憶がある。「同一律の蝶番」も似たようなもので、「クッションの綴じ目」と同じ仕組みを存在論に拡張したような感じと捉えるとよいかもしれない。
一見すると、十分に成熟した人格の蝶番は寸分の緩みもズレもなく安定しているかのように思われる。しかし、綴じ目が同時に綻びでもあるように、実は誰しも「私」を繋ぎ止める蝶番は簡単に緩んでしまうほど脆いものなのかもしれない。
レヴィナスは、主体とは「結ぼれであるとともに解け」という言い方をしていたが(「主体性はまさに結ぼれであると共に解けである。ー存在することと、存在することとは他なるものとの結節点であると同時に解結点なのだ」(『存在の彼方へ』p.38))、実存蝶番はもともと「あそび」を持たせてできている。

なお、このような「結ぼれであるとともに解け」的自己を至極わかりやすく図示したものとして井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』から以下の図が参考になる。

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』p.58 Ⅰ 事々無礙・理理無礙 より引用

自己をこのような、「とめどない現象流の渦がたまたま連続性をもって一瞬焦点化したもの」程度の重みづけて捉えると、同一性を縛り付ける「=」の間に簡単に隙間が空いて、刻々と「私」に「私ならざるもの」が融入し、同時に「私ならざるもの」が「私」となり、「私だったもの」が「私ならざるもの」へ、くるくると身軽にあらわれを転じ、弾けては流れてゆくことがわかる。要素が凝集すると一瞬「結ぼれ」としての自己が生ずるが、結ぼれは同時に、「解け」への傾動を実現している。また、宮沢賢治のいう「わたくしという現象」はこうした網目の上で明滅する自己にほかならない。

そもそも、「生」という状態自体が凪の水面にわけもなく、気まぐれに発生したあぶくのようなものであって、余剰である。そのため、シニフィアン、木村敏先生では「ノエシス的自己」、ひらがなの方の「わたし」、「内包的自己」・・・は真っ白く穢れのない真綿のように、縫い付けられた糸の間、容器の規格から勢い余ってあふれだしてしまう。しかし、私が私であるためには、湧出するシニフィアンをシニフィエの器に収めておかなければならない。

器はいつも頼りないもので、溢れ出るシニフィアンを抱えきれなくてパンクすることもある。しかしむしろ、両者がぴったりと張り付いて緩まない自己の方がよほど窮屈で悲惨であろう。実存のひらきがない、ということは溌剌としたいのちの余剰が一切無く、無意味な活動が許されないという状態をさす。
自分の言いたいことを所与の言葉ではどうやっても十全に表現できないからこそ、どうしてもこの身体では自己一致できないからこそ、人は現状に満足できず、余計なことをしはじめる。二足で立ったり故人を弔ったり芸術したり哲学したり、笑ったり泣いたりするのは、そういうことではないか。



自己意識のずれや離人的な感覚を言語で的確に語るのはむずかしいが、この問題に関して安永浩先生の「ファントム空間論」は非常に参考になる。『精神の幾何学』から引用しながら考えてみたい。

「ファントム理論」とは切断した四肢の痛みを「実際にそこにあるように」感ずる幻肢痛(ファントム・ペイン)のごとく、純粋な心的体験を客観的な空間座標上に再現したものである。以上は、主/客、全体/部分、質/量といった
① 互いに他項を必要とし
② かといって両項は平等な互換性があるのではなく
③ A項は常に自明のものであり、B項に対して必ず優位にある
という原則に基づいた、A>Bの「パターン」構造が基盤にある。

全てのファントム空間はこの「パターン」によって導かれた基準体験線から説明される。私は、ここでA / B両項が相対化されずにはっきりとした個物概念として「はじめからある」ように考えられている(少なくともそのように見えてしまう)ところが気になっていた。もちろん「現に」このようにあるという、AがAたる事実の重さを直感的に自明とみなす感覚は理解できるが、実体的にA項やB項が「ある」というような前提はどうもなじまない。
この疑問を保留にしておいて、体験線のなかで項を動かしながら色々な仮説を検討していくのはおもしろい。しかし、そもそも「パターン」すら「絶対無の自己限定」であり、私という極点においてたまたまそのような「見え」が可能という程度にすぎないのではないかと思う。例えば、この「身体」をとっても「私」の所在をどこに位置付けてみるかによって全体と部分の対応関係は異なってくるし、全体と部分の区別は恣意的なものであるから、自在に交換することができる。このような素朴な理由から、A項の原理的自明性、先行性の原則がいまひとつ疑わしい。A>Bと自信をもって断言できないのは、1=1を絶対視できないことと同じであろう。

要するに、ファントム空間はその都度その都度開放される精神現象であり、知覚可能な形式で表層に開放されなくても、潜在的な状態に留まっていようと、大きな生命の単位からすれば構わない(どうでもよい)のではないか。むしろその方が、余計な手間も苦労もすれ違いも、生じないのではないだろうか。

などと思っていたところ、こんな一文を見つける。

「他者の中に、いかにしてその主体性を了解するかが不思議なのではない。本来の体験形態においては対象ことごとくが心をもつ、と言ってよい(幼児にみられるアニミズムとは体験可能性の基盤である)。ひとは客観的「物」なる概念を始めからもっていたのではない。「物」がいかにして「物」であるか、つまり主体性ある存在とみなさなくてもよいかを、長ずるに従って経験が教えるのである。それはむしろ、便宜的、二次的、合理的な認識にすぎない。」(『精神の幾何学』, p.66)

幼児などにみられる自他未分化な原始心性(アニミズム)では、自他の区別はおろか自己意識もいまだ芽生えていない。自分を他者とは異なった個別存在と認め、分化確認し、統御可能なものとして自己一致させていくためには、身近な他者をモデルとした比較操作が不可欠である(鏡像段階)。
あくまで、基礎にあるのは主客未然の原始状態であり、ファントム空間は「便宜的、二次的、合理的な認識にすぎない」。この部分に、決して諸項、パターンが「はじめからある」わけではないということがはっきりと示されていると思う。

自己と他者の区別すらない、はじまり(であり、おわりでもある)の心性。そこでは体験図式は直線上に展開されることなく、「・」のような状態になっているだろう。思うに、この「・」こそ「根拠空間」であり「共通の場所」、木村敏先生のいう「あいだ」未然の濃縮エネルギー体のような強度焦点(器官なき身体)なのではないか。

このように考えると、当初の私の疑問も体験図式の発生の端緒に関わる問いとして扱うことが可能である。ファントム距離を絶対無の自己限定の偶然の様相をパターンとみるとして、体験図式を西田自己限定モデルにドッキングさせてみるとおもしろいかもしれない(図2)。

図2 ファントム空間を「絶対無」の自己限定と見るなれば

「あいだ」論では「絶対無」が「私」と「汝」という様相をもって立ち現れていたが、この場合、個人の反省的自己主我(A)-客我(B)に分離させている。木村先生の言葉では、Aがノエシス的自己で、Bがノエマ的自己。

なおファントム理論については以前の記事でレヴィナスにおける「存在(être)」と「存在者(étant)」のズレ、つまり「私が(存在としての)私でありながら、(存在としての)わたしではない」という存在論的差異を「層状に無限増幅するズレ」(地獄のようなダサさの永久機関)という観点から考察したことがある。

そこで掲載した図を再度引用すると(図3)、パターンの一辺もまた内包された小さなA / B対立図式(鞘パターン)として無限に主客を切る事ができる(安永先生は「無限に主客を切る」という表現はされていないが、多分できると思う)。

図3 Sとsはシニフィアン-シニフィエで、ここではA側を手前に切っている

A(ノエシス的自己)に対し、細かく隠し包丁を入れるように自己を刻んでいく。昔、七夕のオーナメントで紙に切れ込みを入れることでネット状に伸縮する謎のモビールを作った記憶があるが、そのようなイメージである(デリダの「差延」に関しても同様)。

ではその時、主体はどうなるかというと、ひたすら「言いたいこと」「言ったこと」が噛み合わず、「ことば」「言葉」が、「からだ」「身体」が、思い通りに追いついていかない。意図に対して実現がずれていく。かつ、その「ずれ」を補おうとしてさらなるズレを広げていくような状態になる。目の前のコップを手に取ろうとして、掴んだと思った瞬間にコップが指先からスカッと逃れ去る。そのようにして空振りの空振りの空振りに空振りを重ねることが即「語り直し」の努力としてひとをダサくさせるとともに、哲学や芸術に駆り立てるのだと思う。ダサいとは修行、飛翔、精神鍛錬である。

図2は、木村敏先生のいう「自己の個別化」を表したものでもある。これに基づいて、生命の根拠(メタコイノン)からの自他それぞれの個別化をあえてプロセス的に示すとすれば、このようになるかもしれない。


最後の段階でやっと主客が分化しつつあるところに、パターン関係を「便宜的」かつ「二次的」「合理性」のもとで書き加えてみると、先述の図2に戻る。経験的に自覚される「自己」や「他者」のような諸項を通じて、これらの過程は絶え間なく往還されている。
個人的には、レイヤーが異なるものの、同一図面上に第三の共通領域(「あいだ」)を示すことで、説明できることも増えるのではないかと考えている (とりわけ離人、解離においてあまり取り沙汰されない「自他溶融感」の側面)。

もちろん、これは全て同時(無時間的な意味で)に起こっているということは留意すべきであろう。往還は、瞬間瞬間、その都度「火花を飛散らすように」生起している。

自己が自己ならざるものに出会った、まさにそのときに、ぱっと火花が飛び散るように、自己と自己ならざるものがなにかから生じる。・・・このなにか個人以前にある」(『木村敏著作集1 初期自己論・分裂病論』, p.345)

西田が「死して生まれる」としきりにいうように、躍動する生命は、瞬間ごとに死するべきである。あえて時間的に表現したのは、「無時間的に生起する」というような説明では不親切だと思ったためと、自己と他者がたやすく入れ替わることを示す意図があったため、そして何より、「わたし」「あなた」が立ち上がることは自明でありながら自明ではなく、ほんとうに奇跡のようなことであるということを強調したいがためである。主客を二元的に考えているとどうしても忘れてしまいがちなところを、蛇足とわかっていて、執拗に「見える化」するのである。

自己が確たる自己として成立しないということは、「自己」が占める領域が同時に他者性を帯びるということでもある。侵入思考や思考奪取といった、自他の区別が入り混じる自我障害や妄想性の症状も、日常的な自明性は機能しないそのような領域から生じるという。
「絶対無からの自己限定が甘い」ことは「私」を生きると同時に人称を持たない「他者」を生きることでもある。それは分裂病然とした異様な事態にうつるかもしれないが、私は、「そんなことない」と思われてならない。私と他者が共有する「存在の根拠」は、豊かでやわらかく、おおらかなはずだ。。

最後に、木村敏先生の言葉から美しいところをひく。これを読むと、合わせ鏡の廊下を歩いているみたいな気分に包まれる。ややこしく見えるのは表記の問題であるから、「自己」を「わたし」「他者」を「あなた」と読み換えてみればよい。

「他者と無関係に考えられるような「自己」、「対人関係」においてはじめて世界との「間」を持つに至るような「自己なるもの」は、そもそも存在しない。

自己とは他者との間において、この間から成立してくるものでなくてはならない。自己が自己といわれうるのは、他者が他者(すなわち自己ならざるもの)といわれうる限りにおいてである。自己は自己自身において自己であるのではない。

・・・他者の側から見ても、彼の自己は自己自身においてすでに自己であるのではなく、当面の他者である私を他者とする限りにおいて自己でありうる。

一方また、自己が他者を他者となしうるのは、自己を自己とする限りにおいてである、つまり、自己が自己であるということも他者が他者であるということもともにーー 両者をそれぞれ両者として成立せしめているような第三の次元に依存している。

そしてこの「第三の次元」とは、自己および他者と無関係に存立しているのでもなければ、両者と対立的に考えられるものでもない。それはむしろ、両者を包み込むもの、両者を支えるものとして、自己と他者の間にある自己はその存在の成立を自己自身以外の領域に負うている。
自己はその都度自己の外にあるといってもよい。自己は自己でありうるためには、すでに自己以外であるのでなくてはならない。(『木村敏著作集1 初期自己論・分裂病論』, p.334)

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