レヴィナスにみる 「まとまり」と「ばらばら」

レヴィナスの「語り直し」の努力というのは、ことばや思いやまなざしや、そして「わたし」が全体性に回収されてしまうことへのレジスタンスであり、さらには、我々が全体性的な主体をもってして、世界もろとも等しく調和の取れた全体性に回収してゆくという、「全自動型〈さまざまなあわい〉刈り取りコンバイン」みたいになる(というかすでにそうなっている)のを諭しつつ打破する営為と見ることができる。

「全体性の暴力」とは、コンバインの例えで言えば、小さな野の花や草の芽やよくわからない根っこが生い茂っている草むらを、何も考えずにブィーンと「理解」や「了解」のナタで刈り込んでいって、ツルツルに剪定してしまうということである。その上、すっかり都合よく綺麗になった景色を眺めて、「やはり手付かずの自然はいいなあ」とか、わけのわからんことを言う。
この例えをさらに引っ張ると、ブーバーの「我ーきみ」関係は自然に対する不可知性やそこから来る畏怖の念に、はたと構えているところはあるのだけど、あくまでそれは飼い慣らされた自然の範疇であって、自然がこちらに牙を向けてくる外部はそこにはない。言うなれば「手付かずの自然」を残すための自然保護活動みたいなものだろうか。


全体性とは、理解可能性に基づく秩序に下支えさた安心の枠組みであり、そこに要素をギュッと「まとまらす」ことで主体は安定性を得る
それはレヴィナスのタームでは、「家」「内奥性」と呼ばれる。表現は色々あれど、要するに、バラバラになってしまうわたしを「私」にまとめるということだ(これは、液体を固体化したり、砂で団子を作るイメージである)
社会的にそうしなければならないという要請があるのはもちろん、本人としてもとりあえず全体性にまとまってみることで乗り切れる場合も多い。
「お前は誰だ?」という問いに対して、「さあ…誰ですかね…好きに決めていただいていいです」とも言っていられないから、適当に、「男です」「〇〇出身です」「〇〇って呼んでください」とか適当なアイデンティティを着せ、それっぽい仮像を立てることで、その場の難を逃れるのである。

しかし、そこで場当たり的に「まとまった」同一性は仮のもので、「語られたこと」であり、「ほんとうはこんなんじゃない」という違和感が伴う(ここでの「ほんとう」は宮沢賢治のいう「すきとおったほんとうのたべもの」の意味における「ほんとう」である)。
「まとまる」ことは「存在の引き受け」に他ならない。その過重は、疲労や気怠さとして内側から表面化する私が私として「まとまる」ことは、狭く、息苦しく、動きづらい。
したがって、主体として受肉した(不本意ながらにしてしまった)私は、「存在するとは別の仕方」を求めてゆく。もとい、求めざるを得ない。
完全に自己一致することはないし、仮に自己一致したとしても、それは長くは続かない。「まとまり」は恒常的なものではなく、崩壊の動きをはらんでいるのだ。


「まとまる」ことを倦んだその時すでに、「まとまり」の綴じ目は弛み始めている
もっとも、レヴィナスが「分離」を強調しているように、いったん主体を定位し、「まとまってみる」ことが重要な過程であるのは違いない
帰る場所があるからこそ、自由に外出することができるのであって、「宿無し」ではそもそも「外出」(外に開かれてゆく)という行為は成り立たない。定住先がまとまらず、常に漂泊している状態では、うちとそとが「融即」してしまって、私が私として、あなたがあなたとして、バチっと「出会うこと」ができない。そこでは、「愛」も「対話」も、そして「倫理的関係」も、始まらないのである。


本来、こうした「まとまり」の傾動は、水が高いところから低いところに流れるように、あるいは磁石の引き合う性質のように、ひとが生来的に有しているものである。ところが、もともとそれが弱い、あるいは何らかの環境的な外部要因によって「まとまり」の内的動性が弱まると、通常「まとまり」は砂鉄が凝集するような仕方で何の意図的努力も必要とせず働くところが、逐一頑張らないとまとまれなくなる(レヴィナスの場合は、先天的に離人のケがありそうなところと、後のショアーの経験が「まとまれなさ」の中に混在している気がする)。

すると、主体はどうなるか。簡単に、あっけなく、「ばらばらに」なってしまうのである。

この「ばらばら」は、「全体性」に対峙する様態であり、「無限」の定まらなさを宿しているそこでは、自分も、他人も、本質的な区別がない。

雨の日、車の後部座席に乗って、ぼーっと外を眺めていると、窓に付いた雨粒がどちらに行くでもなく、つーっと流れていって、隣の雨粒に付着して大きくなり、また別の雨粒と一体化して変形したかと思うと、一気に下まで流れ落ちて元の形を失うという出来事がある。

自分や他人は、ここでは窓に貼り付く水滴のようなもので、「ばらばら」運動の中では素粒子が往来しているという物理的な動きがあるのみであり、そこに「私」とか「あなた」の区分上の価値的な差異はない
そして、このようだからこそ、このような地平においてこそ、「身代わり」という法外な在り方が可能になるのである。


思えば、「身代わり」とは不思議な状態だ。
「私」を否定して誰でもいいというわりには、すでに「私」として犠牲を申し出ており、どっちつかずな構造がある。
「身代わり」という時点で形勢的には否定から肯定の向きに傾いていて、「われここに」、「自己自身」を兆しはじめているのかもしれない。
これを例えば「one of them」と言い換えてみても、「one」と言ってしまっている時点で、主体の碇、主語の存在感を明確に落としており、不適である。すると、「 of them」くらいが「身代わり」の寸前、本質的に「誰でもよい」という、四肢がふわーっと薄雲状に散り散りにばらけていくような、瞬間の浮遊感が表現できるのではないか。ここでは、「存在するとは別の仕方で 」のそれと似た尻切れトンボ感、回収されない伏線だけを残して置いてけぼりにする空白が茫漠と広がっている
 

以上を踏まえて「全体性と無限」から、動きの本質単位を垂直にうまいこと取り出してみると、「まとまりとばらばら」と表すことができるのではないかと思うのである。
それでいうと「存在の彼方へ」は「まとまりの彼方(ないし手前)」、「まとまるとは別の仕方で」だろうか。同時に、「ばらばら」のイメージが浮き上がってくるようである

なお、この「まとまり」と「ばらばら」の関係は、井筒俊彦が『コスモスとアンチコスモス』で述べている「已発」と「未初」に対応づけ可能であり、ドゥルーズの「モル的」「分子的」にも接続可能な関係だと考えている。おもしろいところである。

重要なのは、「まとまりとばらばら」は定まった概念ではなく、運動であるということだ。
運動は諸項の表層表現に本質的には依存しない(それを通じて顕れるものではあるのだが)。

おそらく運動は、「ほんとう」に近いところでいまも揺れている。

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