存在すること の つかれ
存在することで、同時に存在を引き受けてしまった存在者は、その癒着に辟易し、全身に気怠さを覚える。レヴィナスがそう言うのは比喩でもなんでもなくて、本当に自分の身体が鉛玉のように、熱をはらみ、ずーんとなっているのを最も的確に表そうとした結果の言葉えらびなのではないか。そのように思う。
好むと好まざるとに関わらず、気づいたときには存在に糊付けされている。「自分であること」の過剰さ、無理さ。嫌さ、窮屈さ、ひ弱さ、悔しさ。
先日、存在の生きられ方がどうであるか、要は存在の引き受け、「両義的に存在してしまっていること」重荷と感じるかどうかによって、何をイレギュラーな事態とするかも異なるのではないか、ということを人と話していた。聞くところでは、やはり存在と存在者、「わたし」と「私」(安永先生で言えばeとEか?)がピタッと密着して、一体化しているのがデフォルトの人と、両者がどうにも気持ち悪く、ミョーにズレてしまうのが通常の人がいるらしい。後者では、存在者が温めた牛乳(存在)にだらしなく張った膜みたいになっているイメージがある。
そもそも、存在と存在者の間に寸分のズレもなく、縒れる隙がないほど完全無欠の人なんて、いるのか。実はそうと気づいていないだけで、「私」を乗りこなしているつもりになっているだけではないか。
社会は、存在と存在者の一致を強制してくる圧力に他ならない。後者の、ズレているのがベースの人間にとっては、「一者たれ」という世間からの圧(レヴィナスの言葉で言えば「実詞化せよ」という宣告か)は、痛く、息苦しいもので、非常につかれさせる。それでも、揺れ動く実存をなんとか一つにまとめようとすることは、多大な努力(がんばり)を要するものである。
がんばってがんばって、ある種の「過剰適応」のように追い込んだ結果、とりあえず、脆いながらも「私」がなんとなく形作られる。しかし、永くは保たない。臨界点で留め金がバチッと外れ、その反動として、収集がつかないレベルのグダグダのズレや、積もりに積もった「疲労感」が液状化するような具合で顕在する。現状が非・本・来・的であるという必死の訴え(できなさ)、「がんばり」のしんどさが、一気にたわむとともに、気怠さやめまい、疲労として、身体化するのである。
「努力は疲労から湧き立ち、疲労の上に崩れ落ちる。努力の緊張と呼ばれるものは、飛躍と疲労のこの二重性からなっている」(同上, p.54)。
崩れ落ちる。。
凝集したものが一挙に解ける様は、しばしば「脱臼」と表されているが、個人的には「脱輪」というイメージがしっくりくる。ピンと張っていた糸が不意に切られる衝撃だけ切り取ると、背後から「膝カックン」される感じにも似ているのだが、「かろうじてなんとか軌道に乗っていたのが、急に崩れる(びっくり→戸惑い→焦り→しどろもどろ)」という文脈まで加味すると、「脱輪」が適当である。「当初の軌道」と「脱輪後の軌道」の落差が目に見えてはっきりしているところもよい。
存在と存在者のズレであるが、これはエヴァンゲリオンを操縦するイメージを思い浮かべると、よりわかりやすいだろう。両者がピタッと一致しているときは、シンクロ率100%で自由自在に動くことができるが、その間が隔たっていくごとに、シンクロ率が低下してゆく。もっとも、エヴァとパイロットはどうやっても別の個体であるため、両者の不一致は決して克服できない。それでも無理に完璧に同期しようとするから、疲れないほうがおかしい。
あるいは、存在と存在者の間にラグがあって、いっこく堂状態になる(存在に対して、存在者が遅れる)という例えもできるかもしれない。
「疲労は実存者によって実存することにもたらされる遅延のようなものである。そしてこの遅延が現在を構成する。実存の中のこの距たりのおかげで、実存は一個の実存者と実存そのものの関係となる。疲労とは、実存の中での一実存者の浮上なのだ」(同上, p61, 強調筆者)
口の動きと声が遅れるように、「私」は「わたし」に追いつけない。そのむずがゆさを「語り直す」ことで回復しようと努力する際の疲労は底しれない。しかし、いっこく堂的な遅延にヘトヘトになることのうちに、実存者が一瞬垣間見えるのだという(そう解釈する)。
「わたし」と「私」がズレていることは、収まりどころ、座りどころが悪い感じの、違和感があるといえる。ところが、「わたし」と「私」を無理やり一致させてもそれはそれで、狭くて息苦しい。その窮屈さを解消せんとして、やはり両者はバラバラに解ける方向に傾いていき、またしても「ある」「イリヤ」の中で、金縛りにあう。そして、そこから抜け出そうとして…という。以上のような、救われない過程がレヴィナスの「疲労」論においては、隆起、沈降を繰り返してている。ような気がするのであった。