恒常ガチャキャラのぼくに花束を
明日は4月1日で新生活が始まる日だ。
自分は特段何かあるわけでも始まるわけでもなく、今日までの何もない日々が続いていく。そのはずなのに明日世界が終わる、そんな気がして無性に落ち着かなくなってしまった。頓服の安定剤を少し多めに飲んで布団をかぶる。
明日は今日より気温が下がって過ごしやすいらしい。始まりの日にぴったりな日になるのだろう。
終わらなければ
ここ数日気温が安定しないせいで体調やメンタルも安定していない。
このままいっそ、本当に終わってしまえ、そう思ってしまうほど良くはない。
でも世界が終わるには惜しいくらい楽しみなことはある。その日たちが終われば世界も終わってもいいかもしれないけれど、きっと次にまた楽しみなことが現れるのだろう。
めんどくさい、そう思えるのはまだ未練があるのだろう。
そんなことを考えながらこの文章を書き殴っているのだが、自分は変化というものが至極苦手なのだと思う。
だから世界が始まりの日を迎える明日にひどく怯えてしまうのだろう。
怯えて閉じこもって、置いていかれる。
これを繰り返して今年の夏に25歳になる。
俗に言う四半世紀だ。
つまり100年内の4分の1を生きたのだ。
実感はわかないけれど、思えばたくさんのことを体験して、たくさんの人に出会い、優しさに触れ、またその反対の人の悪い部分にもさらされてきた。
泣き出してしまいたい夜もあった、笑い続けてお腹を釣った夜もあった。
全てが愛おしい日々だ。それがどんなに最悪でも最高でも、たしかにこの人生を支えてくれた全てだ。
どうせならテレビドラマや大ヒット映画になるくらい素敵なほうが良かったけれど、スキマ時間に読むくらいの面白さはあったと思う。
明日世界が終わるならやり残したことは山ほどある。あるけれどありすぎて無いのに等しいかもしれない。人生やればよかった、やらなきゃよかったという後悔ばかりある。
けれど今まで選んできた選択が全て最適解だったのではないだろうか、そう最近考えいる。
というのも、やればよかったという後悔。行動していたら『やらなきゃよかった』ともっと後悔していた可能性もあるし、後悔する暇もなく悲惨な結末を迎えていた、という可能性もあるのだ。やらなきゃよかったという後悔はその逆だ。『やればよかった』と後悔するだろう。
そしてこの両者を体験して得た知見というのはかけがえのない財産になるんじゃないかと思う。
その積み重ねで今があるのだから、その時その選択を選んでいて正解だったのだ。きっと違う選択肢を選んでいれば今よりクソな「いま」があった。
そう思うと幾分か楽になって鎮痛剤の代わりくらいにはなる。もし、万が一、今より良い「いま」があるのならそれはそれとして羨んでそこに近づけるように頑張ればいいのだ。
この書き殴りに結末なんて考えずに走り出してしまったけれど、明日世界が終わるのなら、「未練しかない。でも今までクソだったけど最高だったかも。」結論はそれだけかもしれない。
一昨日まで冷えてたベッドは昨日今日の暑さでぬるくなっていてきもちが悪い。
他人の芝はいつまでも青く見えて色違いのモンスターのように羨ましい。
この生活をいつまで続けるのだろう、続けられるのだろう。
4月1日ではない日が始まりの日となるとき、怯えずにいられるだろうか、閉じこもらずに迎えられるだろうか。
明日は今日より気温が低いからその気温差で、世界が始まりの日を迎えてその温度差で、風邪をひかないだろうか。
恒常ガチャで出てくる大したレアリティもない自分はまだやれるのか。そんな劣等感に苛まれ、足掻きつつ、今日も眠る。
明日はエイプリルフールだ。きっと世界が終わってもみんな信じないでそのまま終わる。
明日は晴れの予報らしい。きっとみんな笑顔で写真を撮る。
そこにいつか交じれるように願って眠る。