独りになりたいと思った時どこへ行けばいいのだろう。
ふらふら途方もなく歩いた先は、山とそこにある小さな小屋かもしれない。
この本はイタリアのミラノという都会で生まれ育った小説家が、30歳で世間に疲れ、誰にも会わないよう山小屋で暮らす様子が綴られているエッセイである。
彼は山の自然や動物との出会いを通して身体全体で山を感じ、深く深く思考している。孤独になりたいという苦しさを片隅にもちながら静かに季節を過ごしていくうちに、少しずつ心が整理されていったように思われる。
山での暮らしは動物たちとの接触がたくさんあり、言葉を交わさなくとも互いのテリトリーを守りつつ交流をしていたようだ。
それは野生のものだけでなく、夏の間に訪れた牧羊犬たちとも。
古びた小屋での生活は都会とは違っているものの、そこにしかない愉しみがあり、またその小屋が過ごしてきた時間に思いをはせることもあった。
山小屋といってもきちんと設備が整えられていたようで、こんな場所なら自分も住んでみたいと思った。
独りを求めていた彼も、山で出会う人々と接するうちにいつの間にか誰かと話したい、一緒にいたいと思い始める。
暗く閉ざしていた心が溶けていく様子を、直接的な感情表現は少なくともじんわりと読者に届けてくれている。
夏の間山に登ってくる牛飼いのガブリエーレとは食事を共にする。
宿泊場所になっている登山小屋の青年二人は、年齢やおそらく山に来た動機も近いこともあり筆者を迎え入れた。三人の、日々の行動がそれぞれ違ってもどこか似ている雰囲気をもつ生活は不思議な時間に感じられた。
山での暮らしや出来事を通じて、後半には彼の感情の動きが豊かになっていることが文章からわかる。
そして春から秋を過ごした山を下りる時がやってきた。すっかり溶けた心をもち、再び筆をとり書きたいと思えるようになったのも山での暮らしがあったからこそだと、最後まで読むとそれがよく分かる。
山の自然の美しさや厳しさを綴った部分はとてもたくさんあり絞り込めないが、読んでいて自分も山に立ち五感をフル稼働して自然を感じているような気持ちになった。牧草地、渓谷の集落、雪の積もる山頂、自分は体験したことがないのだがこの目でそんな風景を見てみたいとも思った。
個人的には小屋暮らしに憧れがあるのでなおさら本の世界に入り込むことができた。
独りになったことで彼は山を敏感に感じ取ることができたのだろう。
普段の都市生活の中でもきっと美しいものはあるはずなのに、私たちは周囲の雑音によって感じ取れなくなってきている。
作中で触れられているが、フォンターネは「給水場」という意味をもつ。枯渇していた著書の心は澄んだ水で満たされたのだろうか。
もし独りになりたい、静謐な場所に行きたいと思ったのなら山へ行きそこで暮らしてみてはどうだろう。何か掴めるかもしれない。
出典:『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ、関口英子訳
新潮社