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フォンターネ 山小屋の生活

独りになりたいと思った時どこへ行けばいいのだろう。
ふらふら途方もなく歩いた先は、山とそこにある小さな小屋かもしれない。


この本はイタリアのミラノという都会で生まれ育った小説家が、30歳で世間に疲れ、誰にも会わないよう山小屋で暮らす様子が綴られているエッセイである。
彼は山の自然や動物との出会いを通して身体全体で山を感じ、深く深く思考している。孤独になりたいという苦しさを片隅にもちながら静かに季節を過ごしていくうちに、少しずつ心が整理されていったように思われる。

戸口の前にたどりつくと、僕は来た道を振り返った。周囲には森と牧草地、廃墟となった山小屋があるだけで、ほかにはなにもない。遠くを見晴るかすと、南にアオスタ渓谷を囲む峰々が連なり、グラン・パラディーゾへと続いていた。それに、太い幹をくりぬいて造った泉と、野面積みの石垣の名残り、こぽこぽと音を立てて流れる沢。それが僕の世界だった。

〈街で〉より

孤独感というのは時間の経過とともに増すものだと思っていたが、逆だった。僕は最初の数日こそ戸惑っていたものの、すぐに、すべきことがいくらでもあると気づいた。辺り一帯の様子を地図に書き込み、見つけた動物や花を分類し、森で薪を集め、樅の樹脂で実験をし、山小屋の周囲の草を手入れする。

〈地形図〉より


山での暮らしは動物たちとの接触がたくさんあり、言葉を交わさなくとも互いのテリトリーを守りつつ交流をしていたようだ。
それは野生のものだけでなく、夏の間に訪れた牧羊犬たちとも。

僕はそこで立ち止まり、手に持っていたストックを地面におくと、慎重に巣穴の横でしゃがみ込んだ。歌でも聞かせてやろうと思ったのだ。(中略)
同じ歌を三回歌うあいだ、マーモットは最初から最後まで聞いていたが、僕が立ちあがると、たちまち巣穴に隠れてしまった。そこで僕はストックを拾いあげ、自分の畑を目指して山を下りはじめた。

〈畑〉より

僕の毎日の生活にとりわけ大きな変化をもたらしたのは、番犬たちだった。彼らのためにチーズの皮をとっておくと、日に何度か僕のところにやってきては餌をねだるようになった。山男らしからぬことだが、チーズの皮がないときには、代わりにビスケット−僕はそれを「友情のビスケット」と呼んでいた−をやることもあった。

〈隣人〉より


古びた小屋での生活は都会とは違っているものの、そこにしかない愉しみがあり、またその小屋が過ごしてきた時間に思いをはせることもあった。
山小屋といってもきちんと設備が整えられていたようで、こんな場所なら自分も住んでみたいと思った。

部屋は二つで、かつて家畜小屋だった一階に、洋服ダンスとチェストとストーブの設えられた寝室と、バスルームがあり、二階のキッチンに、ソファー、テーブル、二脚のベンチチェアと椅子が置かれている。

〈家〉より

そこである晩、僕はセーターを二枚重ね着して、水筒をワインで満たすと、寝袋を持ち出して野宿することにした。(中略)
九時頃、家畜小屋の石垣のところで火を熾した。先端を尖らせた柳の枝でサルシッチャを串刺しにして炙る。パンの代わりに、小麦粉と水を捏ねて薄く延ばし、かりかりに焼いたピアディーナがあった。(中略)サルシッチャが焼きあがると、ピアディーナに挟んで串から抜き、ひと口ごとにワインをちびちびと啜った。

〈夜〉より

物の怪にとり憑かれた家は、縁もゆかりもない人に貸したほうがいい。それから十年後、一人で過ごせる場所を求めて、僕がその家にやってきたというわけだ。ふたたび筆を執れるようになることを期待しながら、僕はそんな物語の迷宮に迷い込んだのだった。

〈干し草〉より


独りを求めていた彼も、山で出会う人々と接するうちにいつの間にか誰かと話したい、一緒にいたいと思い始める。
暗く閉ざしていた心が溶けていく様子を、直接的な感情表現は少なくともじんわりと読者に届けてくれている。

夏の間山に登ってくる牛飼いのガブリエーレとは食事を共にする。

僕は料理が好きで、ガブリエーレは苦手だったが、二人とも誰かと一緒に食事をするのは嫌ではなかったので、ときおり夕方七時頃に僕が彼の家を訪れるようになった。

〈牛飼いよ、どこへいく〉より


宿泊場所になっている登山小屋の青年二人は、年齢やおそらく山に来た動機も近いこともあり筆者を迎え入れた。三人の、日々の行動がそれぞれ違ってもどこか似ている雰囲気をもつ生活は不思議な時間に感じられた。

ただし、僕たちが似ていたのは身体的な特徴ではなく、性格的な部分だった。自分自身をどのように捉え、他人とどのように接するか。二人とも理想を追い求める傾向があり、過酷な人間関係のなかで生きていくには皮膚が柔すぎた。(中略)
そんな僕たちにとっては、静寂と孤独が一時しのぎの隠れ処として最適だったのだ。

〈格別な一本〉より


山での暮らしや出来事を通じて、後半には彼の感情の動きが豊かになっていることが文章からわかる。

もう何週間も雪を踏んでいなかったので、僕もそこへ足を踏み入れた。とたんに滑って転んだが、すぐに立ちあがった。独りで声をあげて笑い、衝動のおもむくままに叫んだ。

〈格別な一本〉より

僕は落ちた岩の上でザックに背をもたせて横たわった。喉もとに塊がこみあげ、視界が曇ったのはそのときだ。泣くがいい、と僕は自分に言った。どうせ誰も見てやしないのだから。疲れ果て、無性に人が恋しく、自分がいまどこにいるのかさえわからずに、僕は岩の上で横たわり、むせび泣いた。

〈むせび泣き〉より


そして春から秋を過ごした山を下りる時がやってきた。すっかり溶けた心をもち、再び筆をとり書きたいと思えるようになったのも山での暮らしがあったからこそだと、最後まで読むとそれがよく分かる。

今朝起きてみると、世界が一面の白いページになっていた。
雪に覆われた森とのコントラストで、澄みわたった空がいつもより濃密な青に見えた。(中略)
テーブルにつくとノートが僕を待っていた。何年も前の昨日の、雪が降りだす前に書くのをやめた、まさにその行で止まったままだった。

〈銀世界で〉より

僕も最後の最後に、山の小さな交流の場をつくってみたのだ。僕がなにか善行をしたとしたら、あるいは自慢できる行いをひとつ選ぶとしたら、山を下りる前に二人の友人と一緒にテーブルを囲み、三人で楽しい時間を過ごしたことだろう。

〈最後のワイン〉より


山の自然の美しさや厳しさを綴った部分はとてもたくさんあり絞り込めないが、読んでいて自分も山に立ち五感をフル稼働して自然を感じているような気持ちになった。牧草地、渓谷の集落、雪の積もる山頂、自分は体験したことがないのだがこの目でそんな風景を見てみたいとも思った。
個人的には小屋暮らしに憧れがあるのでなおさら本の世界に入り込むことができた。

独りになったことで彼は山を敏感に感じ取ることができたのだろう。
普段の都市生活の中でもきっと美しいものはあるはずなのに、私たちは周囲の雑音によって感じ取れなくなってきている。

作中で触れられているが、フォンターネは「給水場」という意味をもつ。枯渇していた著書の心は澄んだ水で満たされたのだろうか。

もし独りになりたい、静謐な場所に行きたいと思ったのなら山へ行きそこで暮らしてみてはどうだろう。何か掴めるかもしれない。


出典:『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ、関口英子訳
   新潮社

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