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透明な夜の香り

先に読んでいた『赤い月の香り』の前日譚があることを知り手に取った。『赤い月の香り』に登場した若宮一香に起きた出来事、小川朔や新城の過去についてなども描かれている。

序盤はもやがかかったような曖昧さや静けさを感じ、後半の一香の過去に触れる場面は鋭利に迫ってくるような感覚になる展開。
一香と朔それぞれの複雑な事情と心の変化を綿密に表現している。


物語の後半、暗闇で一香が朔の作った香りによって自身の過去を打ち明ける場面は読んでいて心臓が締め付けられるように苦しかった。自分ができなかったことへの後悔、相手に対する暗い感情、それによって閉じ込められて動けなくなった一香の苦しさにシンクロしてしまった。

さらに朔の〈執着と愛着〉に対する葛藤も、作中では本人が詳しく話してはいないが新城からの言葉で感じることができた。
一香への感情は執着なのか愛着なのか。人が変化して自分の元から離れて行ったり嫌われたりすることへの不安。何を考えているか分からない朔にもそういった感情があったのかと後半で気付く。

最後に二人のこれからの関係が示唆されたことで、読んでいる側としては少し安心できた。

「友人として、あの洋館に遊びに行きます」
かすかに息を呑む気配がした。それから、ゆっくりと、朔さんが笑った。


今作も香りについての専門的記述が多く書かれており、その部分は読んで楽しむのがいいと思うので割愛するが、香りそのものの存在についての記述も興味深い。

「香りは脳の海馬に直接届いて、永遠に記憶されるから」
(中略)
「そういう意味では誰もが永遠を持っているんだけど、なかなか気がつかないんだ。そのひきだしとなる香りに再び出会うまでは」

〈プルースト効果〉という、匂いが引き金になって意図せず記憶が呼び起こされる現象がある。上記のことと〈プルースト効果〉が示すように、香りと記憶は密接に繋がっているのだ。

さらに今作は色にまつわる表現が際立って美しいと思った。

大輪の薔薇が朔さん手の中でほどけて音もなく散った。血まみれの手で微笑んでいるように見えた。

私は匂いの中にいた。青白い、死の匂い。

懐かしい、紺色の声。二人きりで話すとき、それはいっそう深まったことを思いだす。

それから言葉選びにも気を引かれた。「怜悧な」「好々爺」など今まで知らなかった淑やかな表現が物語に奥行きをもたせている。


香り、色、そして言葉。美しい表現と人の心の複雑な機微をしっかりと感じられる芸術的な物語だと思った。


出典:『透明な夜の香り』千早茜
   集英社

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