第一章 共鳴振動 2
厄介事を一つ片付け、少し軽くなった心持ちで帰ってきたアパートは、朝僕が出ていったままの人けの無い、しんと静まり返った部屋だった。
まるで一人暮らしの部屋だ。
やはり今日も伯父さんは帰ってはいなかった。
寂しいとは思わない。一人は慣れている。
だが伯父さんと、いつ会えるのかと考えない日はなかった。
それを知ってか知らずか、伯父さんから夕方になって電話がかかってきた。
「みつる、今家か?」
優しい声が僕を安心させてくれる。
父方の伯父さんだが、父とは違い物腰の柔らかい人だった。
「うん、今からコンビニに晩飯を買いに行くところだけど、話しながら行くから良いよ」
僕は言いながら、スマホを肩と頬に挟みドアの鍵を閉めた。
「伯父さん今どこ?」と、そう僕が言うより先に伯父さんが話を切り出した。
「学校はどうだった?」
いきなり遠慮なしの問だった。
もし両親が相手なら地雷を踏まれたように過剰に反応してしまっただろうが、伯父さんには素直になれた。
「うん、まあ、ちょっと居心地悪いけど、いつもの事だし、すぐ慣れるから大丈夫だよ」
僕は力なく笑った。
もしこの場に伯父さんがいたら、頭を撫でて慰めてくれただろうか。
それとも僕を抱きしめて「気に病むな」と、言ってくれるだろうか。
伯父さんは、いつまでも僕を子供のように扱うのだ。
「そうか……まあ無理はするな、俺は何があってもお前の味方だからな」
伯父はいつも僕の言って欲しい事を、さらりと言ってくれる。
「伯父さんは元気なの?」
「ああ、こっちはいつも通りだよ……それより何か変わったことは無いか?お前はしっかりしているから心配はいらないと思うが、長い間家を空けると、可愛い甥っ子だからやっぱり少し心配になるよ。まだしばらく帰れそうにないし……」
伯父の言葉を遮り「大丈夫だよ」と言うつもりが「あっ!」と思わず声が出た。
アパートを出て階段を降りた所で人とぶつかり、体格で押し負け、僕は尻餅をついてしまったのだ。
「すみません」
謝りながら、ぶつかった相手を見上げると、ぎょっとした。
すぐ目の前に相手の顔があった。
尻餅をついた僕の顔を、男がぐっと腰を折り曲げ真っ直ぐ覗き込んでいた。
男のなりは、黒の長袖に黒いスラックス。
一見、体が細く見えるが、背の高さが錯覚させているだけでガッチリした体格をしていた。
身長は百八十センチ以上は軽くありそうだった。
おそらく体脂肪率が低いのだ、袖をまくっている腕や首元、衣服から露出している素肌はどこも筋肉質で頑丈そうだが、全体の印象は細い。
余分な肉のついていない顔は筋肉質だが、やはり細く見えた。
暫く散髪されていないような、しっとりと長い黒髪が顔の輪郭を隠し、余計に痩せた印象を際立たせているのだろう。
男は僕を見下ろした姿勢のままで目だけを動かし、ちらりと辺りを見回すと、目を細めた。
「どこに行った?」
「は?」と、また言葉にならない声が、僕の口から漏れて出た。
男の言っている意味が分からなかった。
男は気怠げに少し首を傾け、それでも僕から目を離さない。
いや……僕を見ているようで、何か別のものを見ているような目をしていた。
「隠したか……いや、逃げたか……」
男は独り言なのか、何やらぶつぶつと呟いた。
「恐いな、恐い恐い」
男はそう言い残し、薄ら笑いを浮かべながら、その場を離れた。
癖なのだろうか少し丸めた背中で歩いて行く男の行先を見守っていると、同じアパートの住人のようで、一階の部屋に入って行った。
ちぐはぐな会話。
ちぐはぐな態度。
僕は呆然としながらも立ち上がり、男が消えたドアの方へ目をやったが、表札のプレートには名前が書かれていない。謎の男だった。
あの人ワイヤレスイヤホンを付けていたっけ?
スマホをポケットに入れたまま、手ぶらで電話している人を見かけると、こんな妙な感じになる事がある。
向こうも電話に夢中になっていたなら、お互い様だよな。
そう思いながら取り落とした自分のスマホを拾った。
「みつる、どうした?みつる!」
スマホの向こうで、伯父の心配そうな声が叫んだ。
「あ、ごめん、ちょっと人とぶつかって転んだだけだよ」
「大丈夫か?」
「うん、僕も相手も怪我なんかしてないし、変な人だったけど、怒ってもいないみたいだ」
「変?」
「あ、うん、ちょっとだけね……」
「本当に大丈夫か?」
伯父さんの声は本当に心配そうだった。
「ほら、アパートの一階にずっと空き部屋だった所あっただろ」
「ああ、階段側の……」
「そうそう、気付かなかったんだけど、あそこに引っ越して来た人だったみたい、すんげぇ背が高ぇ〜の。伯父さんよりデカいんじゃあないかな」
笑いながら、わざとフザケた素振りで言ってみたが伯父さんの心配声は治まらなかった。
「一度帰って、挨拶がてら、どんな人か確かめておくか……もし本当に変な奴だったら引っ越しを考えてもいい」
「え!いいよそんなの。過保護すぎるだろう。恥ずかしいよ」
僕は断固拒否した。
伯父さんの過保護ぶりに呆れはしないが、少し焦った。伯父さんは僕を本気で心配しているのがわかったからだ。
「そうか?そうだな……ごめんごめん」
伯父さんは、笑って答えたが、裏腹にスマホの向こうから何か言いたげな気配がひしひしと伝わってきた。
だが、伯父さんはそれを口には出さなかった。
それも、僕の事を思っての事だろう。
伯父さんは僕の事を本気で心配してくれている。そんな事は分かっている。分かっているが、それでもある思いがそれを打ち消し、ふつふつと僕の心を騒ぎ立てる物があった。
「ねえ伯父さん、さっきの人……」
僕が話し出そうとした時、話を遮られた。
伯父さんの声が遠い。
目の前を通り過ぎる電車の走行音と遮断器の警告音で、話が途切れたのだ。しばらく遮断器は上がりそうもなかった。
どこで何をしているのか、最近伯父さんからかかってくる電話は通信状態があまり良くない。
今日は特に聞き取りにくかった。
「じゃあ、もう切るね」
伯父は何か言いたげだったが「ああ、またな……」と歯切れの悪い返事をして通話が切れた。
僕は通り過ぎる電車を見つめながら、伯父さんではなく、あの人の事を考えていた。
さっきのあの男、雰囲気というか空気感というか、なんとも言い知れぬ独特の存在感に、僕はどうにも惹かれた。
共鳴するように、心が振動する感覚。
また会いたいと思わせる人だった。
この感情は恋愛感情に似ている。
そんな事を言ったら、伯父さんはどんな顔をするだろうか。やはり心配するだろうか。
いや、伯父さんならきっと……
そんな事に想いを馳せていたら、ふと僕は伯父さんの顔を朧気にしか思い出せない事に気づいた。
前に会ったのはいつだったろう。
考えるが、頭に靄がかかったように、どうしても思い出せなかった。
もう何年も会っていない気さえした。
「そんな訳ないじゃないか」
僕は鼻で笑い飛ばした。
だが、と思う。
僕は頭を振った。
伯父さんはなかなか帰ってくることは出来ないが、電話はこうして三日と空けずかけてきてくれる。
わがままを言えば、伯父さんはきっと、僕に会いに帰って来てくれるはずだ。
次に電話があった時、わがままを言ってみようか……
僕はスマホを握りしめた。
しかし、伯父さんからの電話はそれから暫く途絶えた。