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第二章 混濁迷走 1

「芦屋、体調は大丈夫か?」
 授業が終わったあと、老教師に突然そんな言葉をかけられた。
 持病の頭痛はここしばらく治まっているし調子は良かったが、担任でもない古典の教師がなぜそんな事を僕に聞いてくるのだろう?
「問題ないですけど……」
 訝しげに思いながらも僕は素直に答えた。
 それなのになぜか老教師は白髪頭をワシワシと掻き回しながら困ったような顔で僕を眺めおろしている。
「わかった、それならこれに保護者のサインと印鑑をもらってきなさい」
 そう言われて手渡されたのは『部活動入部届』だった。
 弱小すぎて定員割れでも起こしたのだろうか、顧問自ら強引な勧誘活動とは、そうとう切羽詰まっているのかもしれない。
 それにしたって入部届にはしっかりと僕の署名までしてある念の入れようは、いくら何でも強引すぎやしないか。
 僕はそんな事を思いながら入部届に視線を向けたまま言った。
「部活だなんて僕は……」
 そこまで言って、言葉を呑み込んだ。
 部活動名に『アニメ研究同好会』と書かれていたからだ。
 思いもよらずアニ研の名前を突きつけられ、動揺して固まっている僕に、老教師は溜息混じりに言い放った。
「今年、もし二度目の留年が決まったら、問答無用で退学になる事は知っているな?部活でやる気が出るならこれ以上何も言わんが、本気で入部したいなら、二週間の仮入部期間が終わる前に、私に提出するように」
 この老教師はアニ研の顧問に違いないだろうが、強引な勧誘どころか僕の入部を快く思っていないようだった。
 ならば、なぜこんな物を僕に押し付けるような真似をするのだろうか。
 訳がわからなかった。わからなかったが、誰かがこの入部届を僕に無断でこの老教師に渡したのかもしれない。
 ふと、そんな考えが浮かんだ。
 どういう経緯でこの入部届が老教師の手に渡ったのだろうか。
 僕は物言いたげな目で老教師を見上げたが、それだけだった。
 アニ研の部室にフィギュアを捨ててしまったという後ろめたさが、それ以上踏み込んだ話をするのを躊躇させたのだ。
 この見知らぬ入部届のせいで、午後の授業は全く頭に入ってこなかった。
 誰かが僕に無断で、入部届をアニ研の顧問に渡したのは間違いないだろう。
 だが、いったい誰が?何のために?
 あの日の事が頭にチラついた。
 しんと静まり返った人けのない部室棟。
 置き去りにした美少女フィギュア。
 部室棟に行く時も帰る時だって、誰にもすれ違わなかったはず。校舎の窓に人影はあっただろうか……思い当たる事はなかったが、もしかしたら、始業式の日に美少女フィギュアをアニ研の部室に捨てたところを、どこかで誰かに見られていたのかもしれない。
 それでイタズラか?それとも嫌がらせか?
 どちらにしろ相手にするつもりは無かった。
 授業そっちのけで出した結論は……。
「仮入部の間に、これを提出しなければ良いだけじゃないか」
 僕は、有言実行とばかりに、入部届をくしゃりと丸めて教室のゴミ箱に放り込んで帰宅した。

 その夜、夢を見た。
 子供の頃の夢だ。
 今と違って、何でも分かり合える仲の良い友達が僕の側にいた時の夢だった。
 朝、目が覚めると泣いていた。
 僕の友達……どんな顔をしていたっけ。顔は思い出せなかった。
 名前は……もう忘れてしまった。
 幼い頃いつも一緒だったのに、いつ別れてしまったのだろう。
 なぜ、いなくなってしまったのだろう。
 何かきっかけがあったのかもしれないが、それを思い出そうとすると靄がかかったように頭がぼんやりした。
 じゃぶじゃぶと顔を洗っても、頭の中がスッキリしない。それは朝飯を食べ終わっても同じだった。
 僕は、いつまでもくよくよと考えながら家を出た。
 思い出せないくせに、いつまでも頭から離れない。
 僕は右の手のひらで額を覆うように、頭を抱えて呟いた。
「忘れてしまえ」
 こめかみを掴む親指と中指に力がこもる。
「忘れてしまえ……」そう呟くと本当に忘れてしまえる気がした。
「忘れてしまえ……」思い出す必要なんて無い気がしてきた。
「忘れてしまえ……」些細な事に何を思い悩んでいたのか、ばかばかしいような気がした。
「忘れてしまえ……」呪文のように、僕が呟くと「ダメだよ」と、低いが穏やかな男の声が僕を引き止めた。
 アパートの階段を降り少し歩いたところで、ふいに背後から声をかけられたのだ。
 僕がはっとして振り向くと、あの名無しの男が立っていた。
 癖なのだろうか、上背を縮こまらせるように、少し猫背の姿勢で僕の方に近づいてくる。
 前に会った時も、この姿勢の後ろ姿を見たのだ。
「何が、だめなんです?」
 僕は少し後ずさりしながら言うと、さらに男は僕に歩みよりながら言った。
「だめだよ、だめだ、忘れちゃだめだよ。大切な事だからね」
 口元に薄笑いを浮かべながら話すのも男の癖なのか、やはり以前と同じだった。
「え?」
 呆けている僕の目の前に、見覚えのあるキーホルダーがついた鍵を、男はチャラチャラと揺らしてみせた。
「あ、それ!拾ってくれたんですね。ありがとうございます。また鍵を付け替えないと、いけないところでした」
 いつの間にか、僕はアパートの鍵を落としてしまっていたのだ。
 アパートの鍵をなくし、鍵を付け替えたのは何回目だろうか、失くしたと思っても、大抵は探したはずのポケットや置くはずのない場所から、見つかるのだが、たまにどこを探しても見つからない事があったのだ。
 本当に助かった。
 鍵を受け取ろうと両手を伸ばすと、男はふいに鍵を持った手を、さらに持ち上げた。
 思わずそれを追いかけ、僕は背伸びをするような格好で鍵を受け取った。
 そして、改めて礼を言うつもりだったが、言葉を遮られた。
 口を塞がれた訳ではない。
 しかし、お互いの鼻が触れ合いそうなほど、近くまで顔を近づけられては黙るしかなかった。
「失せ物が多いのかね?」
 男の息が、僕の唇をくすぐる。
 僕は身を引くが、鍵を持った僕の両手を、男はぐいと片手で掴み上げて、また鼻が触れ合いそうな距離に引き戻された。
 やはり背が高い、そして信じられないほど力も強かった。
 上背のある男に両手を掴まれたまま腕を高く引き上げられると、僕はつま先しか地面に着く事ができず、どうにも抵抗できなかった。
「はい……」
 僕は、男の顔に息がかからないように、そっと、呟き答えた。
 男の鼻が僕の左頬へ、左頬から左耳、左耳から左頬へ戻り、鼻、そして今度は右頬右耳へと、移動する。
 顔をまじまじと眺め回されたあげく、ふいに解放され、僕は尻餅をついてしまった。
 男は自分の手のひらを凝視してから、その視線を僕に移した。
 僕を眺めおろし、不思議そうな顔をしている。
「おもしろいな」
 言い残し、名無し男はまた背中を丸めて自分の部屋に入って行った。
 僕はあの男に揶揄われているのだろうと思った。だが、不思議と腹は立たなかった。
 あの人と会うと気分が良い。なぜか体調が良くなる気がしたからだ。
 たぶん気のせいではない、あの人と初めて会ったあの日から、僕の持病と言える頭痛が全く起きていなかった。
 不快な痛みが長年続いて半分諦め、もう半分は慣れっこになっていたために、もう忘れてしまっていた心地よさを久しぶりに味わっていた。
 体調が良いだけで、こんなにも気分が良いものかと感動さえしていた。
 しかし、いつにない気分の良さもそう長くは続かなかった。
 今までにないほど酷い頭痛に襲われる事になったのは、それから一週間もたたないうちの事だった。



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