第二章 混濁迷走 2
僕が通う高校の購買部のパンは、種類が豊富で人気が高い。
その中でも僕が気に入っているのは定番の、甘みのあるコーンと程よい酸味のあるマヨネーズをのっけて焼いたコーンマヨパン、それとコリコリと食感の良い胡桃入りのパンだった。
昼の時間に合わせて焼きたてのパンを持ってきてくれるので、まだ温かいうちに食べられるのも嬉しい。
その日の昼休みも、いつも通りお気に入りのパンを買おうと購買部に行く途中だったが、邪魔が入った。
クラスメイトに声をかけられたのだ。
「芦屋ちょっといいか?」
確か、瀧西という名前の女子だ。
ショートカットだが、下を向くと顔が隠れるくらい前髪が長い。
見かけるといつも下を向いている、暗い印象の女子だ。
席も離れているし、僕は瀧西と言葉を交わすのは初めてだった。そういえば、他の誰かと話しているのも見たことがない。
そんな子が僕に話とは何だろうかと、あからさまに怪しげな視線を瀧西に向け返事をした。
「いいけど、何?」
「ここじゃちょっと話しづらいな、場所を変えよう」
瀧西は、話しづらいと言いつつ、怯む事なく真っ直ぐな目で僕を見返してくる。
「わかった、なら中庭に……」
僕が言い終わるよりも先に瀧西はスカートを翻し歩き出した。僕も渋々ついて行く。
行く先は昇降口だった。
バタン、バタン、と荒々しい音が響く。瀧西が立てている音だ。
僕が靴を履き替えている横で、瀧西は脱いだ上履きを荒く靴箱に突っ込み、その手で靴を引っ掴むと、自分の前に放り投げ、歩くついでのように靴を履きながら直ぐさま歩き始める。
「おいおい、マジか」
僕は思わず口にした。
到底、女の子らしからぬ立ち居振る舞いに少し戸惑いながら、僕も慌てて靴を履き、中庭へと向かう瀧西の背中を追いかけた。
正直、今回の事で瀧西の印象は無口でおとなしい女子から、男のように大雑把な女子といった具合いに、劇的に変わっていた。
ふたり並んで歩き中庭に出ると、二つあるベンチのうち、奥のベンチにはすでに男子生徒が三人座っていたので、僕は当然のように手前のベンチに腰をおろそうとした。
だが、瀧西はそのまま通り過ぎてしまった。
「瀧西、どこまで行くんだよ」
また慌てて追いかける。
瀧西は、遅れた僕を待ってくれているのか、奥のベンチを過ぎたあたりでこちらを向いて足を止めていた。
僕が追いつくと、瀧西はいつの間にか手にしていた封筒を強引に渡してきた。
渡すと言うより、押し付けてきたのだ。
ドンと僕の胸に封筒を押しつけ手を放したのだ、僕は落ちるすんでのところで封筒を受け止めた。
押し付けられた封筒は茶封筒で、表にも裏にも何も書いてないものだった。
明らかに告白という雰囲気では無かった。
「これは?」
僕がたずねると、瀧西は開けてみろと言わんばかりに顎で封筒を指し示した。
腕組みをした瀧西を横目に中身を確かめてみると、コピー用紙のような紙が一枚、三つ折りになって入っていた。
それを広げて見て、僕は息を呑んだ。
「何だこれ」
それはアニ研の入部届だった。
僕の名と保護者の署名、ご丁寧に印鑑まで押してある完璧な書類だった。
「顧問の橘に、渡してこいよ」
瀧西は飄々と言ってのけた。
「なん……で、お前……」
あまりの事に言葉が出なかった。
イタズラか嫌がらせか分からなかったが、二度目は冗談では済まされないぞ。
僕は言葉の代わりに態度で示してやった。
入部届を封筒ごと一気に破いてやったのだ。
どうだ!ざまあみろ、と言わんばかりに瀧西を見据えたが、当の本人はだから何だ?と言いたげな表情をしていた。
「お前、いったい何がしたいんだよ!」
僕は思わず声を荒げてしまった。
「アニ研に入部して欲しいだけさ」
言ったのは、僕と瀧西の間に割って入って来た男子生徒だった。
突然湧いて出た男子生徒に僕は身構えた。
「何で僕が……嫌だ」
二人を交互に見ながら吐き捨てると、瀧西と視線がぶつかり合った。
瀧西がずいと前に出てきた。それを男子生徒が抑える。
「素直に入部するつもりはないのかい?これが最適解なんだけどね」
そう言いながら少し困ったように後頭部を掻く男子生徒と僕は暫く睨み合ったが、その様子を見ていた瀧西は焦れたように、押しとどめていた男子生徒の手を振り払って言った。
「手荒なことはしたくなかったが、仕方ない。やっちまえ」
瀧西が言うと、さらに僕の背後から二人の男子生徒が現れ、腕を掴まれた。
さっきベンチに座っていた奴らだ。
両腕を片方ずつ掴まれてもがく僕の姿を、瀧西ともう一人の男子生徒が傍観している。
右の腕を掴んでいるひょろりと背の高い方と、左腕にぶら下がるように掴んでいるチビは見覚えがなかったが、瀧西と一緒にいる体のでかい奴には見覚えがあった。
東国原秋人。僕の元同級生で、今は先輩のアニメオタクだ。
横に人の倍はあるふくよかな体格の東国原は、切れると危ないやつという噂の奴だった。
「こんな物はいくらでも作れるよ、僕はアニ研の部長だからね」
僕が破り捨てた入部届を拾いながら、東国原は言った。
「と言うか、もう一枚用意してある」
そう言って上着の内ポケットから、僕が渡された物と同じ封筒を取り出した。
「怖い怖い怖い何なんだよ、お前ら」
怖いというより気味が悪かった。
東国原はわざとらしい悪役みたいな表情を作り「まあ、話はアニ研の部室でしようじゃないか」と、言い残しその場を立ち去って行く。
東国原の言わんとする事を察して、両腕にへばりついた男子生徒が二人同時に僕を引きずりながら歩き出した。
東国原と瀧西の脇を擦り抜け、僕は抵抗も虚しく連れ去られる。
左腕のチビだけなら振り払えるが、右腕を掴むノッポからは逃れられない、見かけより力があった。
瀧西も東国原の言葉の意図するところは分かっているようだった。
「じゃ、先に行ってますよ」
東国原に声をかけて拉致されて行く僕の後ろをついてくる。
「待て!」
僕は背後の東国原に向かって叫んだ。
東国原が職員室のある本校舎に行くのが分かったからだ。
アニ研の部長として、僕の入部届を顧問の橘に提出しようとしているに違いなかった。
東国原は、必死でもがく僕に何故か自信ありげな笑顔を向けてきた。
校舎に入る時に、渡り廊下でもたもたと靴を脱ぎ、それを綺麗に揃えてから靴下のまま立ち去るのでなければ、威風堂々と格好の良い姿だったに違いない。
あの自信はいったいどこから来るのだろう。
僕を説得できる自信でもあるのだろうか。
部員数が足りず幽霊部員でもかまわないから、と説得されれば頭を縦に振ったかもしれない。だが、こんな事をされたら温和な僕だって意固地にもなるだろう。
「アニ研なんて絶対に嫌だからな」
僕は毒づいたが、両脇の二人はお互い顔を見合わせ、おやおやという表情をしていた。
後ろからついてくる瀧西にいたっては、鼻で笑われてしまった。
僕をどうとでも出来る、そんな余裕が垣間見えた。
僕を説得できる材料でもあるのだろうか、だいたい入部届は僕の名前と保護者の署名の筆跡は変えてあったが、どちらも僕のものとは違ったし、こいつらのイタズラで自分は入部届など書いていないと訴えれば無効だ。
最悪、手続き上はアニ研の部員にさせられたとしても、無視して活動なんてしなければ無関係でいられるのだ。
美少女フィギュアを部室の前に捨てて逃げた事を持ち出されたとしても、証拠など何も無い。
そうだ、何も恐れる事はないのだ。対決してやろうじゃないか。
僕は自信をつけ、引きずられなくても自らアニ研の部室に行くことにした。
こんな厄介事は、今日を限りに終わらせてやる。
僕はどんな事があっても屈するつもりはなかった。
しかし……僕の思惑はすべて無駄に終わった。