序章 力量不可測
顔がじりじりと火照る。
眼前で炎が燃えているようだった。
顔の皮膚が、焼け焦げそうなほどの熱に晒されている。
前へ突き出した両手はさらに熱を帯びていた。
熱い。熱い。熱い。
しかし、それから逃れようと腕を引く事は出来なかった。
なぜなら焼けるように熱い何かは、突き出した自分の手の中にあるのだ。
両手でしっかり何かを掴み、それを握り潰すように固く組まれた指と指、手の甲に食い込むほど力のこもった爪の先が少しでも揺るげば、それがたちまち溢れ出すだろう。
それとは何だろう。
それは見えない。
握りしめている自分の手が邪魔で見えないのではない。目には赤く眩しい光しか見えないのだ。
ルビーのように真っ赤で透き通った光。
これは何だ?
血だ、僕の血の色だ。
その瞬間、すべてを理解した。
しっかりと閉じた目蓋の向こうからでも、光を強く感じる。
目蓋の血管を透かして、太陽の光が赤く緋の色に見えている事を、僕は覚醒しながらぼんやりと考えていた。
目を開けると、そこは当然のように僕の部屋だった。
昨夜は、カーテンを開けっぱなしで布団に潜り込み眠ってしまったようだ。布団からはみ出した右腕と、窓に向いた顔に、強い日差しが降り注いていた。
髪がゴワついているし、布団の肌触りが不快だった。
風呂にも入らなかったようだ。
もう昼近いが、一向に布団から起き上がる気にならなかった。
なぜって、最悪な気分だからだ。
どれくらい最悪な気分かと言えば。数週間前、担任に呼び出され「留年が確定した。芦屋、お前には三つの道がある、どれにするか決めなさい」と、僕が絶句するような事実を、失望するでも励ますでもなく、淡々とした態度で担任に告げられた時よりも、もっと酷いという事になるだろう。
まだ夢を見ているのかもしれない、そうであってくれ。
願うように目の前の物を、引き攣った顔で僕は見つめた。
二十センチの、可愛い、が僕の腕の上にある。
白い小袖に、緋色の袴。髪はおかっぱボブで幼顔。
流行りのアニメキャラだろうか?
僕はそういうのに疎くて名前は知らない。
簡単に言えば、巫女フィギュアだろう。
もう少し詳しく言うなら、オタクがよだれを垂らして喜びそうなエロロリ美少女フィギュアと言う事になる。
巫女衣装にはあるまじき薄衣を表現した作りで、特に胸と尻が強調されている。
明らかにそういう類の代物が、僕に腕枕されて横たわっているのだ。
それどころか、昨晩はこの美少女フィギュアと仲良く添い寝をしていたのは、この状況では明らかだった。
だが、断じて僕にそんな趣味は無い。
しかし何故こんな事になったのか……とは思わない。
心当たりはあった。
それは昨日の夕方、もともと出席日数が不足するほどの頭痛持ちの僕は、自分で留年を決めたとはいえ、やはりナーバスになっているのだろう、薬を飲む頻度がいつもより増え、うっかり常備薬を切らしてしまったのだ。
二度目の二年生の初登校が間近に迫り、少し落ち込んだ気分と頭痛の痛みを引きずりながら薬を買いに出かけたその帰り道の事だった。
突然の雨。
しかし帰途の道のりはそう遠くない、僕のアパートはもう見えている。
急げば服の中まで濡れる事はないだろうと、目深にパーカーのフードをかぶり、線路を足早に渡って、道路ひとつ向こうにある舗装されただけの、屋根もない駐車場に駆け込んだ。
駐車場を隔てたアパートの階段を目指して走る。
駐車場の隅に設置されたゴミ置き場を通り過ぎようとしたその時、急ぐ足を止めるようにゴミ袋が転がって来た。
うちのアパートのゴミ置き場は、ブロックでコの字に囲われただけの、屋根も扉もない、ただ場所を指定しているだけの狭い空間だった。
いつも回収日の前日にはゴミ袋の山が出来ていて、防護ネットで覆い、崩れ落ちるのを防いでいるのだ。
たまにネットを開け閉めするのが煩わしく思う輩がいるようで、ネットの上にゴミ袋が置き捨ててあるのをよく目撃した。
その一つが転げ落ちて来たのだろうと、僕は思った。
さあ拾って下さいとばかりに、足元にピタリと寄り添うゴミ袋をそのまま見過ごすわけにもいかなかった。
フードで顔を隠した男がゴミを置いて走り去るなんて、こんな怪しい状況では、僕がゴミを放置した犯人に思われるじゃないか。
仕方なく薬の箱を左手に持ち替え、ゴミ袋を右手で掴んでゴミ置き場を見上げると、防護ネットが半分外れているのに気がついた。
誰かが規則通りにネットの中にゴミを収めようとしたのだろうが、詰めが甘いと言わざるを得ない。ネットをかけ忘れ、開いたままになっていた。
積まれたゴミの量がいつもより多い気がする。
雨も降っている。
ゴミの山が今にも崩れてきそうで、一旦ネットをかけてからゴミ袋を隙間に押し込むべきか……
僕は掴んだゴミ袋にちらりと目をやり、またゴミの山を見つめた。
掴み上げたゴミ袋には何か硬い突起物が入っているようで、無理をすれば破れて中身が飛び出して、余計に面倒な事になりそうだな、と躊躇したその瞬間、それは起こった。
ゴミ袋の山が崩れ落ちてきたのだ。
扉のない出し入れ口から雪崩のようにずれ落ち、僕の足元にゴミ袋が転がり溢れた。
肩の高さまで積み上げられていたゴミ袋の山が、腰辺りまでの高さになっていた。
ゴミ袋に足を取られ、膝をついて転んだ僕は、頭を抱えながら起き上がった。
背後で聞こえる踏切の警告音が耳障りで頭痛に響く。
どうせ、もう服は雨で濡れているし、自分に否はなくても、やはりこの惨状を放置しておく訳にはいかないだろう。
「は――っ」
溜息を一つうち、僕は覚悟を決めた。
薬はドラッグストアで一緒に買った水で流し込んだが、頭痛はまだ治まらない。
さっさと片付けて部屋に帰りたかった。
薬の箱をパーカーの左ポケットに捩じ込み、両手でゴミ袋を片付け始めた。
掴んでは積み上げ、掴んでは積み上げを繰り返し、ゴミ袋の山を作っていく。
幸い袋が破け散乱したのは、最初に掴んでいた袋だけで、中身も子供が喜びそうな、おもちゃばかりだった。生ゴミなど入っていなかった事は助かったが、すべて片付け終わった頃には、僕はずぶ濡れになっていた。
頭痛を抑える為に薬を買いに出かけたはずなのに、部屋に辿り着いた時には更に酷くなっていた。
頭は朦朧として風呂に入る気力もなかった。
雨でぐっしょりと濡れた服をすべて脱ぎ捨て、水が滴る髪にもかまわず、布団に潜り込んだ。
そして、いつの間にかそのまま眠ってしまったのだ。
そう、僕は今、全裸なのだ。
薄すぼんやりした記憶ではっきり思い出せないが、美少女フィギュアは散乱したゴミから拾ってきたのだろう。
子供が好きそうなおもちゃに紛れて、いくつかフィギュアを見た覚えがある。
なぜ、これを拾ってきたのかは覚えていない。だが、エロロリ美少女フィギュアを拾ってきたと言う事実は否定しようがない。
今現在、全裸でエロロリ美少女フィギュアと一緒にいるのが現実だった。
「これを誰かに見られたら、変態も確定だな」
皮肉に顔を歪めながら、僕は呟いた。
明日は留年最初の登校日だった。
僕は大量の不安要素に押し潰されそうになりながら、その日を無為に過ごした。