第三章 半醒半睡 5
学校からゆるゆると二十五分ほど歩いて到着したマンションは、ちょっとした湖のような貯水池を見下ろすように建っていて、その景観の良い貯水池を左手に見ながら、マンションのエントランスまで行ける道があった。
五階建ての二階。
階段側から三番目のドアが東国原の家だった。
南淵は慣れた様子で、迷いなくそのドアの前に立つとインターホンを押した。
しばらく待つと、女性の声が応対した。
「はーい」
「こんにちは、秋人さんの後輩の、南淵と芦屋です」
決して愛想が良いとは言えないが、さすがの南淵も、こういう場面では丁寧な口調で挨拶をするのだな、と感心していたのに、それはすぐに裏切られた。
「秋人のお友達ね。いらっしゃい、どうぞ」
ほどなくドアが開くと、東国原の母親らしき女性が出迎えてくれた。それなのに「おじゃまします」と、それくらいは声をかけたものの、案内してくれようと待っている母親を無視して、その横をすり抜けたかと思うと、南淵は勝手に家の奥へ上がり込んでいく。
「お、おじゃまします」
僕も一言だけ挨拶をかわし母親を横目に南淵の後を追った。
廊下の先はリビングになっていて、リビングと廊下を仕切るドアは、半分開いている。
そのドアの隙間から、リビングの掃き出し窓と、さらにその奥にベランダがちらりと見えた。
さっき見た湖のような貯水池の風景が見渡せるベランダだろう。
南淵は玄関から最初の左手のドアを通り過ぎ、次の右手にあるドアをノックした。
リビングの手前にあるそのドアが東国原の部屋のようだ。
「どうぞ、入ってくれ」
東国原の声がドアの向こうから、僕たちを呼び込んだ。
南淵の後について部屋に入ると右手にベッド、左手に本棚、中央にはテーブルがあり、その向こう正面に勉強机が配置され東国原がいた。
僕は東国原の姿を凝視した。
「東国原、その足……」
勉強机とセットになったキャスター付きのチェアに腰かけていた東国原は、スウェットの上下姿で、右足のズボンの裾を脛までまくり上げ素足を露にしていたが、足首から先が包帯でぐるぐるに巻かれ、腫れ上がっていたのだ。
僕の表情が曇ったことに気づいたのだろう、東国原は笑いながら、その足をふわりと持ち上げた。
「ああ、そう気にする事はない、第五趾末節骨骨折だ」
「僕の為に、すまない」
「いやいや、芦屋くんのせいじゃないよ、私の予測の甘さが招いた事故だからね。それに見た目ほど酷いわけじゃないんだよ、タンスの角に小指をぶつけた時になる事が多い骨折なんだそうだ。たいしたことは無いんだが、松葉杖がなくても歩けるようにシーネを入れて念入りに固定してあるだけさ。二、三日は念のため学校を休むようにって、母がうるさくてね」
「どのくらいで治るんです?」
南淵が聞いた。
「んー、全治五週間だそうだ。小指は末端の末端だから新陳代謝が悪くて、回復がちょっとばかり遅いだけさ、だから芦屋くん……そんな顔をしないでくれ、かえって気が引けるよ」
僕はどんな顔をしているのか自分でも分からなかった。
幼い頃から僕の周りでは、とかく不幸が多い。家族と疎遠なのもそれが原因なのだ。今回の事も……そう思うと正直僕は落ち込んだ。それが顔に出ていたのかもしれない。
僕の傍らにいた緋卜香が、不意にそばを離れる気配がした。
「痛いの痛いの、飛んで行けぇー」
可愛らしい声が言う。
緋卜香が僕のそばから離れたと思ったら、東国原の所に行っているようだった。
東国原は、みっともないくらい表情がだらけている。
「北吉様に教えて頂いたんです。痛そうな人には、こうすると良いって。痛いの痛いの、飛んで行けぇーって」
包帯を巻いる足が、ぴくぴくと痙攣するように空中で悶えている。
「あ、ありがとう、ご褒美……いや心配してくれて。早く治りそうな気がしてきたよ」
東国原は足を閉じて座り直した。
緋卜香が、ふふっと笑った。
緋卜香のおかげで、重苦しい空気が軽くなり、なごやかな雰囲気に僕も思わず微笑んだ。
だが、そんな空気を壊すように南淵がずかずかと東国原に近づいた。
「へぇー」
言いながら、包帯でぐるぐる巻の足の甲をこんこんと小突く。
「いててっ!痛いじゃないか、南淵くん。酷いな」
東国原の訴えに、南淵は薄笑いを浮かべた。
「顔が全然、痛そうじゃないから、本当にケガをしてるのかと思って」
南淵の指摘に、慌てて拳で鼻の下をごしごしと擦って、東国原はデレてゆるんだ表情を無理やり掻き消し、真面目な顔を作った。
東国原の体は、人の倍ほど横にでかい、整った目鼻立ちが少し肉に埋もれたもったいない顔をしているように思う。
髪もよく見ると、ちゃんと整えられた流行りの無造作ヘアのようだったが、残念なことに汗で湿った髪はボサボサに見えてしまっていた。
そんな一見頼りなさそうな風体ではあったが、アニ研の後輩には頼りがいのある先輩として信頼されているのはよく分かっていた。
何かにつけて東国原をイジる南淵も、その実、彼への信頼は厚いように思えた。
僕にとっても今頼りになるのは東国原だけだった。
「あのさ、緋卜香について東国原なりの仮説を披露したいって話、聞かせてくれないか?緋卜香の事をもっと知りたいんだ。僕には理解できない事ばかりだけど、東国原は何か心当たりがあるんだろう。緋卜香はいったい……」
僕がせいて詰め寄ると、東国原は余裕の表情で言った。
「まあまあ、落ちつきたまえよ芦屋くん。色々聞きたい事があるだろうが取り敢えず、先日の事象の……」
と、言いながら机の上から取り上げたタブレットを操作している。
「私なりの見解を聞いてくれ」
東国原は、南淵が撮影した動画を表示させたタブレットを、部屋の真ん中にあるテーブルに置いた。
「これをよく見てくれ」
そう言われ、南淵は東国原の左手側にあぐらをかき、僕は正面に正座をして、それぞれテーブルを挟んで座った。
緋卜香も僕の左隣に、腕が触れ合うくらいの距離で座っている。
東国原は直接床に座ることが出来ず、チェアに腰掛けたままキャスターを転がしテーブルに近寄っている。
全員がテーブルを囲んだ中で、動画が再生される。
最初は、緋卜香が持ったリュックが突然消えた動画、次は緋卜香が椅子にかけられた上着のポケットからスマホを取り出し、僕に手渡した動画だった。
やはり、どちらにも緋卜香の姿は映っておらず、胡散臭いフェイク動画の様な映像になっていた。
「気がついたかね?」
フェイク動画の様に見えること以外、特別気にかかる事はなかったが、東国原は他に留意すべき何かがあると言いたげだった。
僕たちが、はて?という顔をしているので東国原は続けた。
「明らかに緋卜香ちゃんの能力で物が消えているのがわかるね。それで能力の発動条件なんだが、何だかわかるかな。この動画にヒントがあるよ」
東国原は二番目の動画をもう一度再生し、画面を指差して、核心をつく言葉を口にした。
「緋卜香ちゃんが上着からスマホを取り出した瞬間スマホが消えているだろう」
確かに、よく見るとフェイク動画を作る時、編集点をミスしたかのように一瞬遅れてポケットの近くでスマホが突如あらわれている。フェイク動画だとしても違和感のあるB級以下の仕上がりになっていた。
だがこれは作り物の動画ではないのだ、編集点などあるはずが無かった。
「緋卜香ちゃん確認なんだが、上着からスマホを取り出す時、一瞬、手で覆い隠すように取り出さなかったかい」
東国原の問に、緋卜香はその時のことを思い出している為だろう。一呼吸おいて返事をした。
「はい、そう言われてみればそうですね」
「うむ、やはりね。私の見解を裏付ける」
東国原は一人で納得したようにうなずいていたが、次の瞬間には目を輝かせて言った。
「検証してみよう。緋卜香ちゃん手伝ってくれるかな?」
「みつる様」
緋卜香の声は、何をやらされるのかと、不安げだったが、僕は背中を押すように言った。
「緋卜香やってくれないか」
しばしの沈黙の後……
「はい、わかりました。でも私は何をすればよいのでしょう?」
緋卜香は心細そうに答えた。