この世に桃源郷があるとしたら
ムクチナートのホテルには翌日も泊まることにした
使い勝手の良い部屋で窓は東向きだが室内は明るくそれに山がよく見えた
夕食のダルバートのご飯の上に熱々のギーをかけてくれるのも好ましかった
若者二人が楽しそうに厨房を切り盛りしていたのが印象に残っている
この日は休養を第一にして近くの村まで軽く散策する事にした
黄色く色付いた白樺の葉が逆光に輝いて眩しい
青空を背景に雪山が屹立している
イネ科の穂も風に揺れて晩秋が近づいているのを感じさせる
吊り橋を渡り落ち葉を踏み締めて草を食む牛の横を通り抜け小さな村の路地を歩いた
午後の早い時間にはホテルに戻った
陽当たりの良い階上の部屋で昼食を取りお茶を飲んでいると近くの席に若者がいた
話しかけてみると気さくに応じてくれた
IT関係の仕事に行き詰まり退職して現在旅行中
インドでヨガの勉強をしてからこちらに来て滞在しているようだ
そう言えば昨日の夕方ホテルの屋上に上がった時マットを敷いてヨガのポーズを取っている青年がいたことを思い出した
将来はヨガインストラクターとして働きたいと希望をもっているフィンランド人だった
長い人生の中で自身の天職を見つけるまでには試行錯誤や回り道は何度もあるだろう
私もかつてそうだった
このムクチナートという場所は大部分のトレッカーにとってはゴール地点だ
一日に歩く距離は誰も大体同じなので到着した村では宿は別であっても日中は昼食、休憩を挟んで抜きつ抜かれつの繰り返しだった
日を重ねると共に多くの人達と顔馴染みになっていく
そして仲間意識のようなものが生まれていく
他のグループのガイドとも顔見知りになった
今朝朝食を取っていたら窓外の道を多くのトレッカーが通り過ぎていった
このホテルの先にはバスターミナルがあるのだ
バスは早朝に相次いで出発していく
この町からは空港のあるジョムソンの街までは1時間ほどだ
ポカラまでそのままバスで行くのならば夕方にはレイクサイドのホテルに到着しているだろう
彼らにとってトレッキングは昨日で終わったのだ
私は一人置いてけぼりを食ったようなちょっと切ない気持ちになった
アンナプルナサーキットを歩いて一周という目的を持つ私にとってここは終着地点ではなく折り返し地点なのだ
これからは左側にアンナプルナの西面を眺めながら歩くことになる
そして今まで見えなかったダウラギリが右手に登場する
フィンランドの若者はどうだろう
彼にとってここはこれからの人生で大切なものを掴むための特別な場所なのかもしれない
ヒンズー教徒、仏教徒にとっては信仰の聖地だ
その昔、馬と共に歩いた交易商人にとっては厳しい峠を越えた後の身体と心の休まる休息地だったかもしれない
目に視える景色は同じでも心に映る景色はそれぞれが違う
川が流れそれに寄り添うように棚田が広がる
果樹園には赤と黄色に色付いた林檎がたわわに実っていた
このオアシスのような町の北側には荒涼とした茶色の山肌が迫っている
その向こうは近年まで王国だったムスタンだ
単なる通過者の私にとってその景色の鮮やかな色彩の対比に強く心を奪われた
ここは此岸と彼岸の境界ではないのかと