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迷い込んだ子羊 3
※続編です。
シガレットキスが頭から離れない。正確にいうと彼女のタバコを咥えた唇が脳裏に焼き付いていて、気を抜くと思い出してしまう。つい先ほどのことのように。もう次の日になってるっていうのによ。
あのあと俺は神崎兄妹と合流して靴を選んで神崎邸に戻った。そして神崎家の長男である大が俺を家に呼んでくれた日から恒例であるように、4人で食卓を囲んだ。
その日の出来事を食卓で話すのが神崎家の慣わしらしい。うちの家族じゃありえない一家団欒具合だが、神崎家であっても佐藤家であっても俺はシガレットキスのことは言えるわけがない。なぜかって?いい歳したオッサンがそんなことを報告するのがキモくてダサいから。
ただボーっとしてると頭に浮かんでくるあの唇をかき消すためか、一宿一飯の恩義の一つとしての皿洗いに加えて昨日は俺がみんなのためにデザートを作った。と言っても簡単なものだが、神崎一家は実に喜んでくれた。その姿にホッとして俺は与えられたゲストルームに戻り、羊を何匹も数えながら早朝を迎えた。
そして目覚めがあのシガレットキスの夢。ようやく眠ったと思ったら目覚めて一発目がこれかよ。しかもまだ3度寝くらいできる時間帯。むしろ昨日の出来事が白昼夢であって欲しい。そう思って俺はクローゼットを開けた。そこには神崎兄妹と買いに行ったあの濃いグレーに紫のストライプが入ったスーツやら小物やら靴やらがあった。俺はそっとクローゼットを閉じる。夢ではなかったようだ。
気を取り直して、俺はパジャマから外出着に着替えてリビングへと降りると、樹里とルイスさんが朝食をとっていた。今は朝の4時半だ。神崎一家の朝はこんなに早いのか。いつも俺が起きる時間帯は8時。入院して以来、どうやら朝に弱くなったようだ。神崎家はあまり俺に無理してほしくないと、起きる時間帯は気にせずしっかり睡眠を取れと言う。
最初は6時に起きていたが樹里とルイスさんに言われたのだ。「起きたいのなら早起きしたらいい、だが、まだ眠いのなら寝ておきなさい。」と。
どうやら大が睡眠障害持ちで2日起きていることもあれば20時間以上寝続けることもあり、自分のリズムで睡眠を取らないと体調を崩してしまうらしい。そういう体質の人が身内にいると、”早起きしなければだらしがない“という概念が消えるようだ。それは俺にとってはありがたかった。
入院前までは1日に3-4時間寝られたら十分だと思っていた。遅刻なんて御法度。だから条件反射で遅くても6時には起きていた。だが、睡眠が不十分だったせいか日中突然の睡魔に襲われていた。それが、入院してからはどうも、病院の朝食の時間になっても起きられず眠っている日もあったのだ。
精神科のあの胡散臭そうな中西先生曰く、「今まで無理して早起きをして睡眠時間を削っていたから、自分の本来のリズムを取り戻すまでにしばらくランダムな睡眠が続くだろう。」とのこと。それも大は聞いていて、自分の病状と重ねて見たのか、神崎邸にお世話になる日には神崎一家からすでに理解を得られていた。
だからこうして俺が早起きすると必ず言われる。
「裕太大丈夫?もっと寝てたら?具合悪い?」
「いや、大丈夫。ただちょっと、早く起きちゃって、二度寝するには眠気が足りないだけ。」
「じゃあ眠くなるまで起きていたらいいよ。一緒に朝ごはんでもどうだい?私たちは今日の仕事がちょっと早いからこの後すぐに出るけど。」
この後すぐって朝4時半に出勤とは以前の俺よりなかなかの社畜具合だな。そんなことを思いながらトーストをオーブンで焼いてコーヒーを淹れていると樹里が1人で喋り出す。
「今日ね、私、超有名人のヘアセットなの!でもね、まだ誰なのか言えないんだ〜。期日まで情報は一切非公開の契約だから。でもでも、この名前聞いたらみんな絶対びっくりするってことはもうわかってる!」
超有名人。誰だろうか?芸能関係に明るくない俺でも分かるくらいの超大物だろうか?思い出せる限りの俺が知っている芸能人を頭の中で思い浮かべていると樹里は渋い顔をしている。
「裕太もパパも興味ないわけ?超有名人のヘアセットするんだよ私!もしかしたら担当になっちゃうかも!」
「そうなのか?凄いじゃないか!樹里!私はただ芸能人に疎いから、思い出してたんだよ。どんな芸能人がいたっけな?って。」
「俺もルイスさんと同じ。芸能人はイマイチわからなくて。でも凄いね樹里は。まだ若いのにそんな大役を任されるなんて。俺には到底できない。ホント、度胸があるというか堂々としているというか。俺にもその器をちょっと分けて欲しいくらいだよ。」
俺は正直に言ってしまったが、若干嫌味のようになってしまったか。慌てて嫌味ではないことを伝えると樹里もルイスも“わかってる”と笑っている。これが俺の家族や職場だったら総攻撃を喰らっていたに違いない。あの人たちとは人種が違いすぎる。大が見ず知らずの俺に親切にしてくれる理由がわかったような気がした。この家庭で育てば人間不信や捻じ曲がった心になるはずがない。
神崎家はきっと絶滅危惧種のような人種なのだろう。そんなことを思いながら出来上がったパンを齧っているとインターホンが鳴る。こんな早朝に鳴らすなんて常識が無いなと思いつつ、出勤前の身支度に忙しい神崎家の代わりに俺が出る。
「おはようございます、茂呂です。先生はご在宅でしょうか?」
「…はい?」
「ダミアン先生はご在宅でしょうか?」
「…人違いではないでしょうか?」
「そんな言い訳は聞き飽きたんスよ先生、今日中に上げなければならない原稿が3つあるんデス!俺も手伝いますのでさっさと家にあげてください!」
何やら勘違いしているような、意味不明なことをインターホン越しで捲し立てる男性がモニターに映っている。額に片手を当てて髪の毛をかき揚げ、両手を横に広げている。よく分からないが早朝から不審者にしか見えないため、支度中に申し訳ないがルイスさんを呼ぶ。彼なら一家の大黒柱だし何かあった時の対処はできるだろう。ルイスさんはモニタを確認すると笑って玄関の開錠ボタンを押して、サンダルつっかけて不審者を中へと招き入れた。
「裕太、彼は大の担当さん。編集の幸平。幸平、彼は大の友達で今うちに住んでる裕太。」
ルイスさんに紹介されて慌てて挨拶をする俺。茂呂幸平という編集者は大の担当で、今日は締切間近の作品がなかなか届かず連絡もつかないため様子を見に来たらしい。
「ダミアン先生は?」
「仕事中か冬眠中。昨日の夕方以降見てない。」
ルイスさんはそう答えると作業着に着替えてそのまま出て行ってしまった。樹里は気付けばもういないし。俺は大の編集者と2人きりでリビングに取り残される。気まずくなった俺はとりあえずお茶か珈琲でも淹れようかと提案し、幸平もその提案に乗った。物静かな人だ。視線もなかなか合わない。ヤンキーのような見た目なのに。完全な偏見だが思わずそう思ってしまった。さっモニター越しに見た人物とは別人のような人見知りっぷり。
テーブルを挟んで幸平は紅茶を飲んでいる。俺はさっき自分が入れた残りの珈琲に口をつけると既に緩くなっていた。無言の時間が苦手で俺は幸平に質問をする。
「さっきのダミアン先生って、大のことですか?」
「…そうっス。」
「あの、大が締切まで大変だったとは俺知らなくて。昨日大を買い物に付き合わせちゃったんですよ。だから、その、納期もあるとは思うんですけど、あんまり大を責めないでください。ホント、申し訳ないです。納期過ぎて会社に怒られるの、あなたなのに…。」
「あ、いえ、そんな、気にしないでください!こういうの慣れてるんで!ていうか、これが俺の仕事だし。怒られるだけなら慣れ過ぎて楽勝っス。」
「…それでも、簡単な仕事ではないですよね…あの、あまり、無理しないでくださいね…倒れたら大変ですから。」
納期や取引先と会社に板挟みになりながら調整し、自分の時間を削って奔走する自分と幸平を重ねて見てしまう。
「…あの、人違いだったらすみません。もしかして、先生が病院に連れてった社畜って…、あんたのことスか?」
社畜。大は自分の編集にそんな紹介をしていたのか?間違っちゃいない表現だからなんとも言い難いが、そうか、大の目にはそんなふうに見えていたのか。そう思うと少しおかしくなって思わず口元が緩んでしまう。
「大は俺のことそんな風に言ってたんですね。自分で認めるの癪だけど、なんか大に言われるとそんな気がしてくる。」
「…あの、もしかしてなんスけど、先生言ってないんスか?」
「何を?」
幸平は少し言いづらそうな顔をして意を決したように口を開く。
「今回の連載の主人公のうちの一人、女性なんスけど、社畜のヒロインなんスよ。過労で倒れたのを主人公が拾って、一緒に暮らすっていう設定で。」
幸平の言葉は性別を変えると俺のような気がしてくるではないか。アイツ俺を題材にして小説書いてんのか?嫌じゃないが、俺なんかが題材になって面白いのか?という疑問が湧く。まあでも、お世話になってる身だから使えるものはなんでも使ってくれって感じだけど。どんなストーリーになってるのかは気になるところ。
「その作品てもう世に出回ってる感じですか?」
思わず聞いてみた。読めるなら読んでみたいと思って。
「まだです。今週の週刊分から新連載なんで。」
「じゃあまだ誰も読んでないのか…。」
俺が独り言のように呟いた言葉に、幸平の目は光る。思い出したと言わんばかりに。
「そうなんスよ!だからまず担当である俺が一刻も早く読まないといけないンスけど!先生から全然連絡来なくて!Twitterも投稿止まってるし!今このタイミングで冬眠入っちゃまずいんスよ!とにかく起きててくれさえいれば先生はどうにかなるんで!冬眠してないかチェックしにきた感じっス!」
「でも流石に4時半は早すぎません?」
「いえ?先生は夜型なので、この時間帯に書いてること多いんスよ?大体朝6時頃に書き終わって電池が切れたように眠る。ある意味昼夜逆転というか。物書きだけじゃなくて一分いるんス。そういう生態の人。まあ、俺もそのうちの一人なんで、ちょっとわかりますけどね〜。一度先生の様子見てきますね!」
幸平はそう言って大の部屋へ向かうとすぐに戻ってきた。こっそりドア覗いてこっそり帰ってきたのだろうか。
「先生ちゃんと起きてました!良かった〜。あの人一度スイッチONになると書き上げるまでノンストップなんスよ〜異常な集中力。たまに書き上げる前に力尽きてますけど(笑)」
最初に出会った人間とは別人のようだ。人見知りかのようなそぶりをしていた男とは思えない。幸平は先ほどの紅茶を一気飲みし、今度は自分で珈琲を淹れ始めた。どうやら彼はこの家の勝手をある程度知っているようだ。編集者ってのはそんなに作家の家に出入りするもんなのか?そんな疑問が湧いてきたから聞いてみた。
「いや、どういうコミュニケーションを取るかはその編集者によるッスね。俺は先生しか付いたことないンで、他の先生たちや編集者がどんな感じなのかは話にしか聞いたことないッスけど。家族ぐるみで仲がいいタイプもいれば、作家本人ともほとんど会わないタイプもいるらしいッス。」
個人の裁量に任せているのか。売れたら楽だが、売れるまではシンドイだろうな、作家も編集者も。作家が売れるために走り回ってる編集者の姿を勝手に想像して同情する。やっぱり社長や部長のパシリで走り回っていた過去を思い出すから。
「作家に合わせて仕事したり生活リズム作ったり、やっぱり大変な仕事なんだね編集者って。」
思わず可哀想になり、同情すると、彼からは想像とは反対の反応が返ってくる。
「全然大変じゃないッスよ?先生の担当の場合はですけど。むしろラッキーです!俺と時間帯合ってるし、色々気遣ってくれるし。今のところ不都合どころか親切にしてくれるばっかりで。」
「へー…なんか勝手に大変だと思ってた。だって、作家って、なんか、こう、普通じゃないイメージで…。」
「まあ、間違い無いっスね。そのイメージは。大まかに二タイプなんスよ。」
「普通か異常かってこと?」
「ていうより、社会不適合者だから面白い作品を書くタイプと、常識人で才能ぶっ飛んでるタイプとって感じっスね。ダミアン先生は冬眠したりするのは言えば社会不適合者なんスけど、元々会社員やってたのもあってそこら辺の常識とか大衆の感覚とかってのはあるンスよ。でも着眼点とか考えてることとかは奇抜というか一足飛びというか。だから面白いンスよ、あの人。」
「そんなに面白い話を書くのか。」
「…まさか知らないンスか?ダミアン先生の作品。」
「…知らない。ていうか、あいつのペンネームがダミアンだってのも今知った。」
「あんたら一緒に暮らしてるんスよね?」
「ええ、まあ…2週間ほどお世話になっています。」
「それなのに先生のペンネームも作品も知らないわけ?」
「………。」
「まさか坂本ダミアンて有名作家の名前すら知らないなんてことないよね?」
「…坂本、ダミアン?」
「嘘でしょ?」
幸平に信じられないという目で見つけられ、居た堪れなくなる。すると二階から物音が聞こえた。幸平は反射的に立ち上がっておそらく大の部屋へ飛んでいった。椅子を大きく引くような音だったから、書き終えて立ち上がったところなのか。そんなことを想像しながら俺は手元のスマホで“坂本ダミアン”と調べてみる。検索欄にはWikipediaとともに大の顔写真が出てくる。そして作品紹介欄には大量の作品名。TV/映画欄には14本の作品がパッケージ写真とともに並んでいる。しかも恋愛や女性主人公ものが多いのか?パッケージには美女たちが写っているものが多い。タイトルやパッケージを見る限りじゃ俺が見るタイプのものじゃない。でもTwitterや各種SNSで作品名を検索するとあらゆる投稿が出てくるから相当人気作品を生み出す大先生なのだろう。まさか自分と同い年とは思えない活躍ぶりに羨ましさを通り越して眩しくなり思わず目を瞑ってしまう。そのまま座っている椅子をずり下がり浅い場所で座り両足を放り出して後ろへと仰反るように体勢を変えた。
そのまましばらく漠然と大はすごい奴だなと思っていると2階から降りてくる足音が聞こえる。二人分の足音だ。ということは大と幸平だろうか?俺は椅子に座っている姿勢を正して残りの珈琲を飲み干すと大から声がかかる。
「裕太、おはよう。今日は随分早いんだな。」
「おはよう。」
大は眠そうでもなく目がバチバチに開いているわけでもなく、至って普通の様子だ。昨日、夕食を食べ終わった後に一睡もせずに夜中もずっと小説を書いていたのだろうか?思わず口からこぼれてしまう疑問。
「眠くないの?」
「今日はそうでもないな。仕事も終わったし、この後ちょっと仮眠取ろうとは思うけど。」
そうだよな。流石に寝るよな。じゃないと24時間起きていることになる。いくら睡眠障害があるからってそんな長時間起きてるのも良くないはず。そんな大を思って俺はデカフェの珈琲を淹れて大に手渡す。幸平にも淹れなおそうと思いカップを取ろうと移動すると、幸平はちゃっかりカップを差し出してニンマリする。
「なんだ君たち、知り合いなのか?」
微妙な仲の良さに大は俺たち二人を見やると、幸平が俺の肩を組んでくる。
「今日が初対面だけど、先生がなかなか書き上げないもんだから仲良くなっちゃった。」
「なんだそれ僕への当てつけ?」
最初は人見知りかと思ったが、気づいたら肩を組まれ大への当てつけに利用されるほど仲良くなったとは。きっと幸平は警戒心さえ失くなればすぐ懐く野良猫のようだ。
大は珈琲を一口飲むと側にあるコーヒーテーブルにカップを置いて、ソファに落ちていく。やはりお疲れ様のようだ。
幸平はというと、淹れたばかりのそれなりに熱い珈琲をぐびぐび飲み干して自分のカップを洗いながら大と仕事の話をしている。
俺はそれを邪魔しないように、先ほどまで座っていた椅子に座り直して自分のスマホの画面ロックを外す。さっき二人が降りてくるまで読んでいた坂本ダミアンについての記事を読むことにした。
記事には“期待の若手脚本家誕生”“自身の作品を実写化””次の挑戦は映画監督か?!“など華々しいタイトルが載ってある。大が期待された星であることは間違いない。こんなスーパースターを俺は知らなかったとは。テレビを見ない弊害がここにも出てしまったか。これは大の作品には目を通しておくべきであろう。お世話になってるとかもあるけど、それよりも、純粋に大が描く世界を覗いてみたくなった。
俺はとりあえず書店に行こう。江戸川区の書店に売ってるのか?そもそもそんなに書店があるわけではないエリア。何件も回るのは面倒だから一件で済ましたいところ。オンラインで在庫を調べてみるとどうやら新宿の紀伊國屋と池袋のジュンク堂には大の作品が揃っているらしい。
新宿の方が近いが、正直あの人混みに突っ込みたくはない。できれば避けたいエリアだ。となると、池袋か。あそこもまあまあ人は多いが新宿に比べればだいぶ可愛い方だ。通勤ラッシュを避けて行きたいから10時過ぎてから家を出よう。さっさと買って帰ってきたらとりあえず一冊は読んで、今日こそは夕ご飯を作って、みんなでご飯を食べたら二冊目に移るか。よし、当分このサイクルで生活が回りそうだ。とりあえず10時まで何するか…まだ人気が少ない早朝を狙って散歩にでも行こうか。そう思って立ち上がると公平も帰る準備をしている。
「先生との打ち合わせは終わった感じ?」
「はい!俺はこのまま失礼します!」
「お疲れ様です。」
「おやすみなさい!」
幸平は元気よく帰って行った。大はソファから立ち上がると眠そうに大きな欠伸をする。さっきまで全然眠そうじゃなかったけど、昨晩から寝ずに作業すればさすがに眠いよなそりゃ。
「お疲れ、大。一気に眠気きた感じ?」
「まー、さっきから眠かったけどね、僕に合わせて起きてくれてる幸平の前で欠伸なんてできないし。いやしかし、咳もそうだけど我慢しようと思えば思うほど出てくるよね〜。」
大はそう言いながら、寝てくると言い自室へと戻って行った。俺はそのまま靴を履いて家を出て土手沿いに向かう。スカイツリーが見える土手。まだ薄暗く、スカイツリーは見えるものの夜のように派手なライトアップはしていない。それでも目立つんだからあの電波塔は東京のシンボルだな。そう思いながらいつものコースを歩いているとまだ5時過ぎだってのに何人かとすれ違う。みんな老人だけど。年寄りは朝が早いってのは本当だったんだな。お年寄りが多い街だからってのもあるか。そんなこと言ったら少子化超高齢社会の日本だとどこも老人ばかりいて当たり前か。
にしても、本当に若い人とすれ違わない。土手沿いを歩きながらも、誰もいない公園や凪いだ水面を見ながら歩いているとバチンと弾力のあるもの同士がぶつかるような音が聞こえてきた。あたりを見回すと、20m程先にある小さい橋の上で誰かが向き合っている。奥の人は目深にキャップを被り全身黒ずくめのような格好をしている。もう一人は右手を左手で持っている。そして何やら声量は抑えて強い口調で捲し立てているように見える。よく分からないが状況から察するに奥の人が手前の人と口論している?手前の人もしかして右手で奥の人をブったのか?
嫌なものに出会ってしまったなと思った。いつもはこの橋を越えて向かい側の土手沿いを歩くのがお決まりのコースだが、喧嘩中の二人がいる橋をこの人気が少ない、というか俺たちしかいない空間であの険悪であろうエリアを突っ切るのはいくらなんでも気まずすぎる。俺にはそんな度胸ない。そう思って俺はそのまま曲がるはずの橋をスルーして大通りを渡りさらに同じ土手沿いへとルート変更をした。問題はこれいつ対岸へ渡るか。もう一つ先の橋といってもすぐそこなんだけど、その橋を渡って無事に対岸の土手沿いをUターンしてきても、まだあの二人が同じ場所にいたらやっぱりというか尚更気まずい。あちらさんが俺に気づいてなかったとしても俺が気まずい。どうか帰りはあの二人がいなくなってますようにと願いながら、若干ペースも緩めて歩いているともうあの橋まできてしまった。見ないようにとなるべく視界に入れないでいたが近くになって思わず見てしまった。防衛本能的に確認せずにはいられない。
ラッキーなことにあの二人は橋から消えていた。よかった。俺が二つ目の橋まで歩いているうちに場所を移動してくれたか。思わず安堵のため息が出た。しかし、なにやら下の方から水の音がする。凪いだ水面だったよな、さっきまで。魚でも飛び跳ねているのか?音がする方を見ると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
黒ずくめのキャップを被っている人が川へ入って行くではないか。入水自殺か?それしか考えられなかった俺は急いで土手を下ってその人の元へと向かう。服が濡れるとかそんなこと考えてる暇はなかった。バシャバシャと大きな水音を立てて近づく俺に気づいたのか、黒ずくめの人は動きを止めた。俺は息絶え絶えになりながらも声をかける。
「あの、なに、してんすか…?」
「………。」
「…自殺じゃないですよね?」
「…はあ?」
その人物は俺を正面に捉えて心底ウザそうな顔をしていた。これは自殺するような人がする顔じゃない。一瞬で間違いに気づいた俺は「申し訳ない」と一言謝ってその場を去ろうとした時、その人に腕を掴まれた。驚いて飛び跳ねてしまったが、恐る恐る振り返ると、その黒ずくめの人はサングラスを外して口元に笑みを浮かべて言った。
「ちょっと探し物手伝ってよ。」