私は生きる 生きるために 生きる 生きること自体が 目的である だから 他のことは 手段である 生きていながら 生きる目的を 探す人が多い 生きる目的は 生きること 自体でよい 生きる目的を 探す人は それ以前に 生きているのだ 心臓は動いている そのことに気づけば 何も焦る必要はない 生きていると 時間がある だから 好きなことを すればよい 勿論 生きるために 不本意でも しなければならない こともある それは仕方ない 必要最小限 受け入れる 好きな
仏教で言う「四苦」の生老病死。人間の避けることのできない苦しみと言われる。もう一つ「人間関係」という苦しみも加えたくなる。「八苦」の中には「愛別離苦」「怨憎会苦」というのもあるが、人間社会の関係の苦しみはまた別のもののように思える。人間関係の悩みは不可避だ。これもカルマなのか。
人生は無計画に場当たり的に生きている方が、楽かもしれない。計画を立てると計画通りにいかないストレスに苛まれるし、予定を立ててもおそらく予定通りにいかない。人生はコントロールできないのだ。ほんの少しを除いては。でも場当たり的に生きても、何か大事なものを失ってしまう気がする。難題。
「僕は人間がいびつだから、歪んだ生き方しかできないんだよ」先生は、海に沈む夕日を見ながらそう言った。その背中は寂しそうで、底しれぬ寒さと孤独感が漂っていた。いつも控えめに温厚そうに笑う先生とは別の人間、いや「孤独」そのものが服を着てポツンと立っているような気がした。言葉が消えた。
だれもが スリルを もとめる そして スルリと ころぶ だるまさんは スリルを もとめない だから なかなか ころばない
道化師が ころんだ 土けむりが 舞った 道化師が だけど誰も 気づく人は いなかった
在るべき処に在り 為すべき事を為し 為さざるべき事を為さず 心のままに進み 心のままに留まる 至るべき処に至り 終えるべき時に終える 実はそのように できているのだろう
人間は虚構を好む存在だ 虚構は現実に立脚し 逆に現実の問題を 映し出す 虚構には 現実を変える力がある 時に現実と虚構の相互作用は 両者の境界を曖昧にし 空中楼閣を創り出す その迷宮に入りし者は 永遠の彷徨に人生を費やす 既に現実と虚構の境界は 消滅しつつある 私達は何処にいるか
偶然は必然で 必然は偶然だ 結局両方とも 人間の作った 言葉や概念に過ぎない 実態はそうした 対立的な言葉や概念では 表すことができないほど 複雑で流動的だ 有機的であり 無機的でもある もう人間が作った言葉や概念に とらわれることなく 自由になろうではないか
本当の自分になる どこかで 憧れや理想を夢みて 自分自身でない何者かに なろうとしていた 若かりし日々 本当の自分になる これほど難しいことはない 遅すぎることはない 今から 果てしない 自分への道を 歩んでいくのだ
重いと思えば とても重い そんな人生を 引きずりながら 生きるか それとも かろやかに リズムも軽く 飛翔するか 選択の余地は あるのかも しれない もし あなたが 自由ならば
無理をせず 身の丈に合う 生き方をすればいいのに 余りにも情報が多すぎて 自分の身の丈が わからなくなった 過大な自己意識や 過小な存在価値 自分を見つめることを忘れて 虚構の世界に 侵食されて 大切なものを失う 友よ 今こそ足元を見よう 原点に立ち返ろう 真の自己を生きる為に
人がころころころがって 一体どこまで行くのやら 一人ひとりの命を見よ 一つ一つの心を感じよ 世界は多重に重なって 一体どこまでいくのやら 世界は多重に拡がって いつか一つになるのやら 朽ち果てていくのは 新しい芽が息吹くため 朽ち果てていくのは 滅亡と生成を促すため?
人は 人を求めて 人に傷つき 時に 人に癒され 時に より深く傷つき それでも 人は 人を求める 不思議
街なかの 荒れし叢 興梠が鳴く
ふと「狐狸庵閑話」を思い出した。高校生の頃、よく読んでいた遠藤周作の随筆集である。「こりやあかんわ」と読む。よく北杜夫と随筆で、あれこれ面白いやり取り書かれていたのが懐かしい。もう40数年前になるが、今の自分や世の中を見ても「こりやあかんわ」と思ったりもする。ユーモアは何処へ?