住居メモ 01の2➖私の見たイタリアと日本の住まい
写真:西村良栄 著 [ 京都「木津川」のお昼ごはん ]文化出版局 (昭和59) より
ローマに3年半暮らした私の経験からまずイタリアの住宅について見ていきたいと思います。
古代ローマより住宅は石やレンガそして天然のセメントを原料としたコンクリートで作られてきました。その組積造の壁式工法による住宅は、もちろん日本の木造軸組み工法のそれとは大きく異なります。
イタリアでは木は十分には育たず、建築に使う材料は豊富に存在する石やレンガ、コンクリートが適当であると言えます。
その上、古代より集落は敵の攻撃に備え城壁に囲まれ頑丈である必要でありました。同時に住宅も堅牢で火にも強い材料を使うことが合理的であると言えます。
イタリアには城壁に囲まれるローマのような大都市もありますが、自然の要害である山上都市オルビエイトやカルカータなど、海辺の急峻な斜面に抱かれた海洋都市アマルフィやチンクエ テーレのような小都市が数多く見られます。別の言い方をすれば防備がなければ奪われてしまうから仕方なく不便な場所に町を築いたわけです。(盗れるものは取っていいということ)今となっては、皮肉にもこれらの独特な風景が魅力的に映り、大きな観光資源となっています。
勿論、イタリアの家は「LDK(居室) + 個室」の西洋型であり、個室の出入り口は丈夫なドアで部屋の独立性が高い作りになっています。
例えば、ローマはバロックの街と言われますが、1600年代に今の町が発展しました。城壁の内側は6階前後の集合住宅になっています。レンガやコンクリートの組積造の厚い壁が音や気配も遮断して、個室に居れば家族から隔離され個人の時間、空間となります。
古代ローマ時代から積み重なって住む長い伝統の中で培われた家族の人間関係は日本とは異なる方法を作り上げてきました。
ある時、イタリア人とカプリ島で待ち合わせして、二日間一緒に過ごしたことがありました。彼らは旅行先から一日に何回も家に電話していました。よくそんなに話すことがあるなあと、感心したのを覚えています。
我々日本人には暗黙の了解という、言わなくても判る絆が存在しますが、彼らの絆は会話して繋がるもので、旅行に出ても電話で話をしなくてはならないもののようです。
頭の禿げたおじさんが「Mamma!Mamma!・・・」と大きな声で話しているのを聞きますが、ハグしたり、キスしたりは、個室でヒトリ独立した時間を過ごした後、家族の絆に復帰する儀式のようなものかもかもしれません。絆から離れていた分、体を密着させバランスを取っているのでしょう。
一方日本では、華奢な壁や障子や襖などで仕切られた部屋で視線は遮られても、間仕切りを超えて気配で結び付く家族関係が成立しています。言うなれば各個人は常に点線で結ばれているわけです。(一屋一室)
この違いがオリンピックの個人種目で強い西洋人、団体種目で強い日本人の違いの原因かもしれません。
明治以来、日本人は西洋に憧れ、衣食住のすべてで彼らのやり方を取り入れてきました。150年の時を経て、着るものは既にほとんど全身西洋化してしまいました。食はパン、パスタ、牛乳、ヨーグルト、アイスクリーム、チーズ、ハム、ソーセージ、マヨネーズ、ケッチャップ、コーヒー、紅茶、ビール、ウィスキー、ケーキやクッキー等がスーパーマーケットに溢れています。
また、住宅も「LDK(居室) + 個室」の西洋型となってしまいました。戦前も西洋型の住宅は上流階級の洋館としてありましたが、特別なもので、西洋のまったくの写しでした。
戦後、焼け野原に住宅の供給が始まりましたが、小さな伝統的な家が建てられます。その設計に西洋的な考え方が導入され徐々に変化がみられるようになったのは、50年代に団地に寝食分離が取り入れられ、食堂という部屋が生まれてからです。従来の民家の部屋は、夜は寝室、朝起きて掃除して食堂、昼は居間、夕方は家族で食卓を囲み、また、そこで就寝する。その時々の活動に合わせて部屋の用途が変化するものでした。
部屋を多目的に使うことは悪いことではありませんが、絶対的な面積が狭く、これからの産業の発展に必要な消費の拡大により物が増えて家の中に納まりきれなくなります。都会の狭い住宅は経済成長のための足枷になります。それだけでなくより広い家を作ること自体が消費の拡大となるわけです。
1950年に住宅金融公庫が設立され住宅ローンが始まり家を持つことがサラリーマンの目標になり60年代には高度経済成長の時代に突入します。それにつれて民間のローンも充実し、住宅やマンションの供給も活発になり各メーカーの競争の世界に突入していくわけです。
民間の住宅メーカーやマンションメーカーの競争は熾烈で、常に目新しいデザインを追求して消費者の目を引くようになります。それは自動車のデザインと同様でありモデルチェンジが前のデザインを駆逐するのに似ています。(住宅は自動車のデザインの差ほど激しくはありませんが)西洋への憧れの強い日本人の住まいも段々畳と襖の部屋が洋間へと取って代わられ、ドアで遮られた個室に代わってしまいました。衣食住すべてが西洋化してしまい、住宅は「LDK(居室)+ 個室」となり「一屋一室」の古典的な日本住宅は駆逐された感があります。
日本間(畳や襖、障子)はオプションとして居間の一角にかろうじて生き残っている程度です。
縄文の昔から「一屋一室」の住まいが日本人の住まい方でした。日本民族に本来備わっていたであろうメンタリティが家を作り、各時代、時代の家が日本人のメンタリティーを発展させ、また、その発展したメンタリティーがまた家の作りを進化させてきたのです。長い時間を掛けて『麥秋』に見られるような家であり家族になったわけです。
戦後洋風化が社会全体に及び、家も「LDK(居室)+ 個室」の住まいに代わり、核家族化と相まって日本人の家族の絆の在り方も変化しているようです。
また、コンピューターの発達により個人が世界の情報を簡単に得られるようになり、直接影響を受けるようになり、また、社会の変化も加速しています。
戦後の住宅供給は作る側の論理が巾をきかせ、細やかな配慮に欠けるようで、闇雲に西洋型の住宅を提供しているように思えます。残念ながら、「一屋一室」型の住宅の洋風化に伴う顕著な展開はほとんどありませんでした。3000年に渡る伝統を持つ日本の住宅をこんなに簡単に変えてしまっていいのでしょうか。
大谷翔平は子供の時に個室を与えられていないと聞きました。また、子供四人を東大医学部に合格させた佐藤家の子供たちもそれぞれの個室はなかったそうです。子供を育てる時には子供部屋という完結した個室はない方がいいのかもしれません。
今後の日本人の住宅の在り方を探る上で、「一屋一室」の洋風化初期の例を見、その参考になる海外の設計について見ていきたいと思います。
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