「≒好きな人」
「どんな人が好きなの?」
そう聞かれても、なんと答えればよいのかわからず
「好きになった人が、好きです」
と、身もふたもない返しをした。
どういうわけか、みんなそれで納得してくれた。間違いない、と。
正直、あまり人を好きになったことがない。
この人いい人だなあ、みたいなのはたくさんあるけど。
当たり障りのない人間関係の中生きていると、そんなものかもしれない。
ただ稀に、「いい人」を超え、俗に言う「友達以上恋人未満」な領域に入ってくる人がいる。
男女の間に親友同士のような、深い友情は成立すると思っているが、自分がそうであった経験はない。
だから、その領域に踏み込んできた人は自分にとって、ニアリーイコール好きな人だとおもっていたのだが。
「≒好きな人」が、好きな人にならなかったことがある。
人間として尊敬しているし、一緒にいて楽しい。
けれどなんだ。「=好きな人」ではないのだ。
たぶん中学生か、高校生のはじめの方のことだったと思う。
なぜ、この人のことを好きになれないんだろうと、恋愛したがりな情緒が言った。
好きになったら、結果はどうあれ恋ができるのに。
その彼とは、今でも機会があればグループで飲むような友達。
ニアリーイコール、では、何かを始める気にならなかった。
だから今、友達でいられる。
「=好きな人」の最後の決め手はなんなのか。
なぜこの人は、ニアリーイコールなのか。
最近になって、永遠の命題になるかと思われたその問いの答えが、なんとなくわかった。
10年来の親友と食事に行き、じゃがいもとチーズの焼き物を食べた時のことだ。
彼女は猫舌だった。そして私は、猫舌ではなかった。
熱がる彼女をみて、ふと「猫舌って何だろう」と思ったのだ。そして彼女に問い、二人でしばらく猫舌論争をしていた。案外奥が深い。
彼女とはずいぶん長い付き合いだし、彼女と仲のよい理由なぞ、
それこそ愚問だと思っていた。
しかし、その帰り道、案外、人同士の相性の決め手とは、こういうことなのではと、気づいた。
「≒好きな人」は、なにか不思議に感じたことがある時に、不思議なままでも平気な人だった。
一方のわたしはというと、不思議なままではいられなかった。
猫舌ってなんなのか。
猫舌の人って、細胞が敏感なの?
それとも猫舌の人もそうじゃない人も、同じ舌の「スペック」をもっているのに、熱さに弱い人がいるの?不思議。不思議だ。
わたしはとにかく、そう言いたい。不思議だと、声を大にしていいたい。
なんでなんで、と聞きたい。
わからなくてもいいから、一緒に考えて欲しい。
間違っていても、持論が聞きたいのだ。
けれどニアリーイコール君は、不思議だね。それで終わりだった。
他には何にも文句なく、ああ好きだと思える人間性の持ち主。
だけど、私の「譲れないこと」はここにあったから、彼は私の「=好きな人」にはならなかったらしい。
なんだか惜しいことをしたような気もする。
けれども自分にとっては、「そこだけ目をつぶれば」という問題でなかったから、彼とは一生友達だろうし、きっときっと恋仲になったところでどこかでガタがきたはずだ。
…惜しいことをした?
どこかすっきりとした帰り道。
めずらしく父の運転で助手席にのっていたら、
前の軽トラックのナンバープレートが、「3489」だった。
「3489」は個人的に思い入れのある数字なのだ。
そう父に言うと、「3で割れるね」と父。たしかに。
「〇で割れる」と言いたがるのは、数学科出身の性だろうか?
3で割れるナンバープレート。まあ「3」なら、そこそこにあると思うけど。
そんな風に思っていると、
「なんで好きなの」
父にとっての不思議。知りたがりの性分。
間髪入れず父は続けた。
「34+89=123だから?」
むしろそれは気がつかなかった。
今度「どんな人が好きなの?」そう聞かれたら、
「新しい視点をくれる人」そう言おうかと思っている。
なんだか高尚でかっこいい。