コトノハ
こども時代、初めて買った本は俵万智の『サラダ記念日』だった。
『「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの』。
まだその冷たさも知らぬ、カンチューハイの味を想像した。
人間関係に大きな悩みを抱えたことはなくても、初対面の人と楽しく話をすることも、会話の輪にスムーズに入っていくことも苦手。
幼い頃はその性分をうまく扱うことができずにいた。
気を遣うあまり、自分の気持ちを殺してしまったり、「譲れない」はずだったことをやすやす譲ってしまったり。
器用さが欲しい。
誰とでもすぐに打ち解けられる、言葉の力が欲しい。そう思った。
しかし、なにか努力してみたところで、根底にあるのは私の内気さであった。
地声を高く出してみたところで、私は気さくな人間にはなれずにいた。足掻きながらも心のどこかでそれをわかっていたから、私はよく手紙を書いた。
言えずにいた不満も、感謝も、謝罪も。私の代わりに文字が語った。
二三歳になった今、多少の器用さを身につけた。
「ありがとうございます」「申し訳ございません」。
初対面でも意見を言えるし、大人数の会話の輪に加わることもできる。
にこにことして、頷いて、相槌を挟む。
でも、私の本質はやはり変わらず、心のどこかで自分の言葉にびくびくしている。傷つけないだろうか、「なんだこいつ」と思われないだろうか。
考えすぎて話せなくなってしまったら、今でも手紙を書く。
二〇歳になって知ったカンチューハイの味は、想像と大分違っていた。
二本飲んだところで、プロポーズする気も起きそうにない。
初めてこの詩を読んだとき、お酒の力を借りれば何でもすんなり言葉にできるのでは、と期待したが違ったのだ。
お酒を飲んだところで言葉に詰まってしまう臆病さも、それでもどこか期待してすがる気持ちも、全部自分で、目を伏せてしまうこともある。
でもそのおかげで、私は書くことを見つけた。悪くない。
素面でもそう思える。