【エッセイ】最後の代名詞
祖父を思い出すときは、いつも彼の背中をみる。彼は6年前に亡くなった。
小さい頃から祖父にべったり。
祖父の手の温度も、独特のにおいも覚えているのに。
その手につかめない質感やにおいの先には、額縁の中の笑顔はない。
彼の背中、あの背筋を見る。
我が家のリビングには祖父の写真が飾られている。にこやかだ。
朝も夜も目に入る。彼を思い出す。
今日も頑張ろうとか、思うのだが。
そんな風に毎日見るからこそ、祖父の顔を覚えていられるのかもしれないと時々考えてしまう。
もしかすると、写真がなければ私は、彼の顔を思い出せないかもしれない。
私は。私は、薄情者なのだろうか。あんなに大好きだったのに。
そう思ったこともあったが、きっと背中とは、私の中にある、生前の祖父の最後の記憶なのだ。
思ってみれば、子供の頃から「最後」を恐れていた。
「最後」に敏感であった。
これで最後かも、と思うとその瞬間を残しておきたくて写真を撮ったし、祖父の病気が発覚してから、家族で囲む誕生会のケーキの上の飾りも捨てられなかった。
人の最期を見たことがなかったくせに、その人との「最後」が突然訪れることは知っていたからだと思う。
「何か思い出の片鱗を、残しておきたい。」
そんな気持ちからか、誰かと別れるとき、一度振り返る癖がある。
相手が振り向かなかったとしても、名残惜しくて。
潜在的に、「これが最後かも」そんな風に考えているのかもしれない。
覚えておきたいのだ。
行ってしまうその背中。「最後」の代名詞。
生前の祖父との「最後」。
「いってきます」と声をかけた後、玄関先から椅子に座る彼の、その背中をじっとみつめた。
祖父は長くないとわかっていたから余計に。
歪む視界にあらがって、何度も何度もみつめなおした。
覚えておこうと、そう思った。
時間が止まっているみたいだった。
今日も祖父の写真を見る。
笑顔。彼の好きだったセーター。チェックのシャツ。
逆に言えば、祖父の背中も、手の温度も、においも、今はもう手が届かない場所にある。
額縁の外にも祖父の写真はあるけれど、正面ばかりだ。
背中が「最後」でよかったのかもしれない。彼のことをより、覚えていられる。
そんな屁理屈を考えてみては、忘れてゆく記憶をまたつなぎとめる。