小説を読むとき、私は「共感」することを楽しみにしていることが多い。あるいは感情移入とも言い換えられるだろう。主人公に、登場人物たちに。たとえそれがファンタジーの世界でも、大昔の話でも、物語の中の彼ら彼女らと共に生きるその瞬間のために、ページを捲る。 しかし、『ここはすべての夜明けまえ』は少し違った。共感ではない。感情移入でもない。奇妙にも、そこにあるのは「こことは違う世界の私の話」だった。 この物語を要約すると、融合手術というものを受けて不老不死に近い身体になった主
2022年、25歳を迎えた。何事もなければ80年くらい生きるとして、25年というのはまだまだ短いような気もする。しかし「四半世紀」という言葉にした途端に、響きの重さに眩暈がする。それなりに生きたのだなと思う。 これからここに書くのは、私の四半世紀の年表である。何故書くのか。それは私がもう過去を過去のものとして受け止め、どうでもよくなってしまったからだ。いや、語弊が少しある。大切な思い出たちは大切なまま、囚われていた忌々しい記憶から解放されようと思ったからだ。 私は、過去を手放
本日、ファーストピアスを誰の影響でもなく自発的に皮膚科で開けたのが悔しかったので、「ない話」を書きました。 『ファーストピアス』 その日、関東は稀に見る大雪で。インスタのストーリーにベランダからの様子を投稿して数時間後に、懐かしい名前からDMがあった。 「めっちゃ降ってるやん」 彼との関係をなんと表現したら良いのだろうか。一言で言うなら高校の同級生。大学進学で私は上京、彼は地元に残る道を選んでから社会人一年目の今に至るまで、会っていないし連絡もほぼ取っていなかった。
私たちは物語に何かを期待している。これから度々出てくる「私たち」というのは主語が大きすぎるかもしれないが、「少なくとも私は」という体で読んでもらいたい。 「物語」というのには小説はもちろん、映画に演劇、音楽なども含まれるだろう。私たちはお金を出してそれらを消費する。でも、実際にページを開くまでは、足を運ぶまでは、ヘッドフォンをつけるまでは、それらがどのような内容なのか知らない。 知らないのにお金を出すのは何故か。それはきっと、心のどこかで期待しているからだと私は思う。