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2022年6月の読書記録 1/2


 ――あのとき、私はリンゴをかじった。確かに、ひと口、かじってしまった。  グロース・ポワントの邸のリビングで、《マダム・セザンヌ》に向き合いながら、ロバートは初めてセザンヌの作品を見た瞬間を思い出していた。  あのときのことを、いまでもときどき思い出す。そのたびに、リンゴをかじった甘酸っぱさが口の中に蘇ってくる。
原田マハ(2016)「デトロイト美術館の奇跡」新潮社 P50
今日においても次々に神話伝説の発生創造がかくのごときに顕著であり、またそれが樹木の枝葉のようにかくのごとく成長繁茂しつつあることを証拠立てているからであります。
著 佐々木喜善/編 石井正己(2009)「遠野奇談」河出書房新社 P197
 ただ私の思うには、上のごとき問題を考うる民俗学というものは、かくのごとく現在われわれの生活に直接密接なる関係を有する目前の資料を研究し考察して、我々の生活に一縷でも幸福なる光(御神立のような)を考え得るものでなければならぬと考えているので御座います。
 著 佐々木喜善/編 石井正己(2009)「遠野奇談」河出書房新社 P212
その豹はそこにずっとぶらさがりつづけるのだろう。パン屋の主人は急にその豹がかわいそうになった。刑務所ではいつもいわれていた。なにも変わらない、と。今になって、そのことが脳裡によみがえった。
フェルディナント・フォン・シーラッハ/訳・酒寄進一(2015)
「カールの降誕祭」東京創元社 P18
フェルディナント・フォン・シーラッハ/訳・酒寄進一(2015)
「カールの降誕祭」東京創元社 P76
雨音にともに栖みたや青蓮
恩田侑布子(2016)「夢洗い」角川書店 P123
 また逢ふならば雪渓の風の中
恩田侑布子(2016)「夢洗い」角川書店 P125
 古い家具って、人をよぶんだよな。   たいした根拠もないくせに意味ありげに断定する。厳密にはたぶん人ではない。弟がそれとは意識しないまま、どこか遠くから呼びよせてしまうやからだ。
長野まゆみ(2006)「箪笥のなか」講談社文庫 P35
 でも、ひきだしのひとつはずっと空にしておくつもり。ふだんは鍵をかけておいて、ときどきのぞいてみるの。  どうして?  ただ、なんとなく。それが箪笥にたいする礼儀かなあと思って。
長野まゆみ(2006)「箪笥のなか」講談社文庫 P51
「先生、」 「……霧が晴れてゆくね。」  船のことには触れません。でも、パスカル先生の青い睛に船のかたちが宿っていました。イヴン船長がその船に乗っていたことも承知のはずです。ただ、それは先生の秘密なのです。だから、ずっと気づかないふりをしていたのだと、ユンクは思いました。
長野まゆみ(2000)「海猫宿舎」光文社 P160
ところで、怪力乱神を語りたがる人とても無論、この唯物的合理性本能は持っていようし、殊に今日のように学問の力でお化け退治の一と先ずは済んだ世の中にあっては一通り理論上ではお化けを否定は出来るにかかわらず、やはり何となくお化けが好きなのである。
岸田劉生(1996)「岸田劉生随筆集」より「ばけものばなし」岩波文庫
#青空文庫
妖怪変化というものは、「無」いといってしまっては曲のないものにはちがいない。人間というものは、何事でも面白い方が好きなもので、ばけもの等も、本当は、無いのだという事になる事はちと興ざめな話なのである。
岸田劉生(1996)「岸田劉生随筆集」より「ばけものばなし」岩波文庫
#青空文庫
アダムが神の御名を呼んで世界の王となったその日、西と東と北と南のその市々に大きな溜息がきこえて、朝が来ても地の娘たちは天上の恋人たちの朝日にひかる翼のうごきにももう目を覚まさなかった。天住民はそれきりイデンに来なくなった。
片山広子(2004)「燈火節」より「四つの市」月曜社
#青空文庫
知里真志保(2000)「和人は舟を食う」より「アイヌ族の俚謡」
北海道出版企画センター/#青空文庫
今頃だしぬけに現われてくるという問題は、もうこの人生にはない方が当り前である。単にこれまで気のつかなかった実例、それを機縁として新しく見直そうとする心持、今一つはむしろ久しい間ほったらかしていたという事実が、次々に問題を新たにしてくれるのである。
柳田國男(1977)「妖怪談義」より「おばけの声」 講談社
#青空文庫
詛言とは他人が凶事に遭えと、自分が望む由罵り言うので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ」などいうのがそれだ。今日何の気もなくそんな語を吐く人があるようだが、実ははなはだ宜しくない。
南方熊楠(1952)「南方熊楠全集第六巻〔文集Ⅱ〕」より「詛言に就て」乾元社
#青空文庫
それに古代民族にあっては、穀物その物が直ちに神であった。文化のやや進んだ民族は、穀物の豊凶は穀物を支配している神――即ち農業神の左右するものと考えるようになり、穀物と穀神とを区別するが、古代民族にはこの区別が出来なかった。
中山太郎(2007)「タブーに挑む民俗学 中山太郎土俗学エッセイ集成」より
「穀神としての牛に関する民俗」河出書房新社/#青空文庫
だとしたらたぶん悲しみ 夜明け前グルジア映画をふたりで観つつ
千種創一(2015)「砂丘律」青磁社 P25
夜のうちに君がいるうちにくしゃくしゃの地図にいまさら海を探すも
千種創一(2015)「砂丘律」青磁社 P31
ヤイレスポとポニポニクフは,たいへん俺に感謝して,夥しい木幣の荷,食物の荷を,俺に捧げた.俺は安心して,自分の家に帰って,彼らを見守っている.彼らは,海狩に出ても,山狩に出ても,幸運に恵まれた.
知里真志保(1981)「アイヌ民譚集」より「えぞおばけ列伝」
岩波文庫/#青空文庫
山の中などで何者とも知れぬ者に呼ばれることがある.そういうときは,すぐに返事をするものではない.最初は聞き流し,二度目にも聞き流し,三度目に,いよいよ人間の呼び声だなと分ったら,はじめて返事をする.それも,山の中では特別のことばを使う.
知里真志保(1981)「アイヌ民譚集」より「えぞおばけ列伝」
岩波文庫/#青空文庫
既に允恭天皇の御代において、甘檮(あまかし)の岡に盟神探湯(くがだち)して氏姓の詐偽を正す必要があったのである。またこれを正すの目的で出来た筈の平安朝初めの新撰姓氏録にすらも、明らかに夷姓のものが皇胤を称している実例もあるのである。
喜田貞吉(2008)「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」より
「炭焼長者譚 系図の仮托と民族の改良」河出書房新社/#青空文庫
喜田貞吉(2008)「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」より
「炭焼長者譚 系図の仮托と民族の改良」河出書房新社/#青空文庫
白猫の通る夜ふけのさるすべり
森澄雄(1977)「鯉素」永田書房 P26
送行(そうあん)の雨となりたる桔梗かな
森澄雄(1977)「鯉素」永田書房 p183


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