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2022年12月の読書記録


またこの物語を読みて感ずるところは、事の奇と、ものの妖(よう)なるのみにあらず。その土地の光景、風俗、草木の色などを不言の間に聞き得る事なり。白望に茸を採りに行きて宿りし夜とあるにつけて、中空の気配も思われ、茸狩る人の姿も偲ばる。
泉鏡花(1996)「泉鏡花集成8」より「遠野の奇聞」
ちくま文庫、筑摩書房/#青空文庫
大島の何村であるかは知らぬ。七人樣という唄が伝わっているそうだ。またソファイ殿という歌もある。その章句だけは一見したけれども、意味がはっきりとせぬ上に、若干の近代語がまじっているのをみると、はたしてそれが元歌であるか否かも明白でない。はじめは踊に伴うクドキの類であったろうと思う。
柳田國男(1963)「 定本柳田國男集 第一巻」より「伊豆大島の話」
筑摩書房/#青空文庫
殊に大饗宴の時には主客諸共に香り高き薔薇の花冠を戴き、宴席を花綱で飾り、別に香炉を設けて薫香や香木を焚き、食物や飲料等までも薔薇の花や薫の花で賦香するというような次第であった。
加福 均三(1986)「 日本の名随筆48 香」より「希臘及び羅馬と香料」
作品社/#青空文庫
それでも大晦日の晩は、レヴエイヨンといって、みんな大概レストランか何かに出かけ、知人等と食事を供にし、踊っ、唄ったりで、夜を更かす、つまりそれが外国では、新年を迎へる気持ちの唯一の現われと言えよう。その騒ぎも、夜が明ける頃には、何処もすっかり静まって、街上にも屋内にも、平常と何の変りもない一日が来る。
岸田国士(1990)「 岸田國士全集22」より「巴里の新年」岩波書店
#青空文庫
この家には不思議な伝説が残っている。九十九人より多くの女は置くことができず、百人にすると必ず一人が死んだなどと言っていた。(中略)外から見て何人ということを知るには、店土間の板壁に三味線が吊るしてあった。一見質素な商人のような表口に、こんなものを見るのは異様であった。
柳田国男(1963)「 定本柳田國男集 第一巻」より「瀬戸内海の島々」
筑摩書房/#青空文庫
島ではオミキヲ入レルと称して婿方の友人または先輩が、酒を持持って娘の親に挨拶に行くと、それからは交通が公認せられる。女の家には特に一室を用意して、それに女を宿せしめ、婿殿は自由にこれを訪問する。この関係が随分久しく続くことがある。
柳田国男(1963)「 定本柳田國男集 第一巻」より「瀬戸内海の島々」
筑摩書房/#青空文庫
如是畜生発菩提心(にょぜちくしょうほつぼだいしん)の善果をみるまでは、自分はここを去るまいと決心して、彼はこの空き家に踏み留まることにした。そうして、丸三年の今日まで読経に余念もないのであるが、髑髏はまだ朽ちない、髑髏はまだ落ちない、髑髏はまだ笑っているのである。
著 岡本綺堂/編 結城信孝(2009)「岡本綺堂怪談選集」小学館 P34
歳神と言うのは、毎年春の初めに、空か山の上から来る神で、年の暮れに村人が歳神迎えに行く。その時には、山の中の神の宿る木を見つけて、その木に神の魂を載せて帰る。こうした意味で、門松の行事の行われている地方が、沢山ある。この時神は、門松に唯一人で載って来るのではなくて、大勢眷属を率いて来るのである。
折口信夫(1995)「折口信夫全集3」より「鬼の話」中央公論社
#青空文庫
軒端を貸した秦の氏神が、母屋までもとられて、山を降ったものとすれば、客人神(まろうど)は、けだし、その後、命婦(みょうぶ)の斡旋によって、いよいよ、動かぬ家あるじとなられた事であろう。
折口信夫(1995)「折口信夫全集3」より「狐の田舎わたらひ」中央公論社
#青空文庫
しかも、祈祷や医薬の中に籠るべきものまで雑ざっているのが、後世のまじないで、語原の意識がまだ失われずして、内容は既に、多分の変移をきたしているのである。
折口信夫(1995)「折口信夫全集3」より「まじなひの一方面」中央公論社
#青空文庫

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