友達の必要性について考えてみる
友達の必要性についてnoteを書いてみてほしいというリクエストを受けた。
依頼主は友達という存在がほとんどいないのだがその方が気楽で良いらしく、確かにひとりの時間をとても有意義に使っているように見える。だから、友達を結構大事に思っているという私の意見が聞きたいとのことだった。
とはいえ、私も友達は多い方ではない。
広く浅くよりは狭く深くというタイプである。あんまり多くのひとと関係を持とうとすると気疲れしてしまう。この傾向は年々強まっていて、そのうち、社会人になると友達ができにくいという説の実例になれるかもしれない。
また、親友と呼べる存在はいない。
親友と友達がどう違うのか、と言われるとなんとも言えないけど、「俺たち親友だよな!!」的なひとは全くいない。特別な友達はふたりいるけど、片方は東京へ行き、もう片方は音信不通になって会えなくなってしまった。
あれ、私もまあまあ友達いないのでは??
それでも私は、友達と認識するひとたちのことを大事に思っている。内訳としては中高で出会い、主に浪人時代を共に過ごしたひとと、大学で同じく日本文学語学を学んでいたひとだ。どちらも私にとって必要で、それは彼らが思い出を共有するひとであること、そして程良く他人であることに起因しているように思う。
予備校で勉強したことも、発表資料を作ったり卒論を書いたりしたことも、私にとっては良い思い出だ。辛いこともあったはずなのに、人間の脳は都合良く記憶の形を歪ませる。ゆえに、私はこの世で最も美しいものは思い出だと信じている。
それを私と共有し語り合うこと、いや、むしろそれをバックボーンとしていることで、会っただけでその時の空気感に戻れるなんてことは奇跡に近い。
ただ、思い出を共有するのは友達だけではない。家族も恋人も、共通する思い出を多く有している。もちろん、家族も恋人も大事だ。
けれど、彼らとの距離があまりにも近いと感じてしまうこともある。大学進学まではずっと実家にいたし、恋人とは、多いときは大学在学中は週の半分以上を一緒に過ごした。そうなると、離れてひとりになる時間が欲しいと、ふと思ってしまったりする。大事に思っているはずなのに、そう思ってしまう私は割とわがままなのかもしれない。
そんな私にとって友達という存在は、適度に他人なゆえに居心地の良さを感じる。そもそもあまり頻繁に連絡を取ってはいない。めちゃくちゃ多くて週に2、3回といった具合。インスタやXで、生きている様子を覗くだけでも満足した気持ちになるし、やり取りに時間のかかる文通も私には合っている。
ただ、お互いに寂しいとき、話したいときには気兼ねなく連絡するし、実際に会えたら本当に嬉しい。
血が繋がっているわけでもないし、生物の本能に起因する恋愛感情があるというわけでもない。よくよく考えたら不思議な存在な気がする。この文章だって、うまく説明できているとは言い難い。
でも、私は彼らのことを大事に思っていて、必要な存在だと思っている。彼らと会えた偶然は、なかなか馬鹿にならないかもしれない。