藤井風が歌う「人生」について考える~日産ライブの余韻に浸りながら
藤井風日産スタジアムライブ「Feelin'go(o)d」からもう少しで1か月が経とうとしている。徐々に普段通りの生活を取り戻し、仕事に精を出し……ていられたらいいのだが、いまだに風ランド(前回の記事参照)から戻ってこれない。
サザエさん風にここ最近の藤井風に占拠された私生活を振り返ってみると、
・私、windyちゃんに愛着を覚え、写真を撮りまくる
・友、私の藤井風ドはまりっぷりに苦笑
・両親、本気でアジアツアーのバンコク公演に行く決意を固めるも、前列3番目の席をタッチの差で奪われ意気消沈、オフィシャルストアでTシャツを追い購入する(娘と同じくらいハマる)
……そんな感じで、常に頭の中にあの日の記憶がリフレインする幸せな日々を過ごしている間、ライブの演出について改めて考えを向けてみると、個人的にいちばん印象に残ったのが「満ちてゆく」のラストで藤井風が自身の墓に寄り添うように眠るシーンだったと感じる。
マネージャーのカワズ氏も言った通り、このシーンは今まで彼の音楽性を考察してきた上でのひとつの「解」、今回のライブでもっとも「人を救ける」と言われている彼の包容力と共感力に裏付けされた「死生観」が表れていると感じた。
前回の記事でも、「満ちてゆく」チャプターでファンが自発的に行ったスマホライトの点灯による「自然発生演出」が感動を呼んだだけでなく、まさに「藤井風自身が墓に寄り添って眠る="満ちてゆき、人生を終える"」という演出が重なったことで、楽曲の真髄をファン、アーティストの垣根を越えてともに表現できたと感じられるものになった、という旨を書いたのだが、まだまだ書き足りない、もっと彼の音楽について語りたいという気持ちがわきおこり、本記事を書くに至った。
上記の演出をふまえ、改めて藤井風の世界観において「死生観」または「人生観」が表れている曲をおさらいしてみる。上から順に、特にメッセージ性が強いと感じるものから羅列する。
・それでは、
2nd アルバム「LOVE ALL SEAVE ALL」に収録された曲。雄大なピアノの旋律からストリングスサウンドへと展開し、おなじみの岡山弁交じりのフランクな呼びかけではなく、まるでひとつの詩のように穏やかなリリックでささやかれるのは人生の走馬灯ともいえる美しい光景。
ファンの間でも「これは別格に好き」「聴いていると苦しみが消える」「隠れた名曲」と評価も高い。筆者から言わせればアルバムの最終トラックではなく「ロンリーラプソディ」の後にこの曲が来て、続いて「"青春病"」「旅路」と来るのが、そう、それが人生ってものだよ、分かってるな~という気持ちになるし、くう~!憎い!と地団駄を踏んでしまいたくなる。そう、人生は句読点「、」であり、「青春の病に侵され」る「旅路」なのだ。
・帰ろう
「帰ろう」に関しては、生みの親であり、創る苦しみも抱いている藤井風が曲に対して話したこの言葉がすべてだと思っている。ちなみに、私は彼にハマった初期に「帰ろう」を聴いて鐘が耳のそばでゴーンゴーンと鳴り響くような衝撃を得た。こんなに「死」を文学的に、情緒的に歌っておきながら明確に「死」のことは歌っていない、なんなら逆説的に多くを持つことに執着しない「生」を歌っている。彼はしばしば残された者の歌をうたうが(ex.下に記す「満ちてゆく」や「やば。」)、「帰ろう」と共通するのは執着を手放すこと、愛に見返りを求めないこと。そうすることにより鮮やかで不純のない生と死のコントラストが生まれる。断絶されているわけでなく、人を孤独に苛まない、日向と日陰があいまいに溶けた境界線のような……なんだこの曲は、すごすぎる、と脱帽したのを今でも覚えている。
「だって これじゃ人間だ」
まだまだ人間1年目のひよっこである私は、「帰ろう」を迷ったとき苦しんだときにみちしるべにしようと思っている。藤井風も、私も、等しくもがいて生きている。
・満ちてゆく
とりあえずMVを見てほしい。映画だから。
「満ちてゆく」に関してはこちらの記事で言いたいことを大体書いたので本記事では割愛するが、筆者としては1stアルバム「帰ろう」2ndアルバム「それでは、」「"青春病"」「旅路」に次ぐ、第3次「藤井風人生総括」、もしくは「人生3大チャプターの最終章」だと思っている……勝手に終わらせているが、彼にはMVの彼のように白髪になるまで長生きしてほしいと心から願っている。往年の藤井風のブルースも聴きたいから。
これが藤井風なんだ、これこそが藤井風の人生なんだ、と思わせられるひとりの男の一生と愛に翻弄され、包まれる姿。文句なしの名曲である。
----↑ここまでは個人的に3大葬式で流したい曲↑----
・ガーデン
・花
この2曲に関しては、万物を愛する藤井風……もちろんその中に植物、特に彼は人目を気にせずたくましく健気に咲くところを愛しているのではないかと思う……のボタニカルな感覚を人生観と重ねている印象を受ける。
「わたしのガーデン 果てるまで」
→ガーデン=命
「枯れていく 今この瞬間も
咲いている 全ては溶けていく」
→花=命、生きること
今回のライブステージのコンセプトが「nature」だったのもあるが、藤井風の音楽と植物はイメージとしてつながりやすい、親和性が高い気もするので、人生を花や庭(Garden)と暗喩されることにより、ビジュアルとして想像しやすく、より自分自身を植物を愛でるようにSelf careする気持ちにさせてくれるのではないだろうか。
・まつり
こちらも以前執筆した2ndアルバムレビューでコメントしたが、そこから引用するならば、「祝い事に心躍らせる日本人の精神を歌った、ジャポニズムの精神に溢れた1曲」だ。
楽曲全体がゆるやかなアップテンポで軽快かつポジティブなイメージを持つなかで、核心を突くような歌詞も登場する。
「生まれゆくもの死にゆくものすべてが同時の出来事」
にぎやかな祭りの中でも厳かさを忘れない神の気配、宵にかげる杜の存在を彷彿とさせてくれるフレーズだ。
「だって、これじゃ人間」だから、いつだって私たちはどうしようもないほど人間だから、藤井風の歌う「人生」や「生きること、死ぬこと」の潔さや優しさ、穏やかさに耳を傾けてしまう。
そうした歌を苦しみながら創り、歌う彼も人間だ。だから、私たちはいつでもどんな時でもアーティストとリスナーの境界を越えて愛する友人になれる。心を通わせ、寄り添える。
「また会える日まで わしらズッ友!」
太陽が照りつく奇跡のような2日間を終えた後、彼が私たちに伝えてくれたメッセージを胸に握りしめて、これからを生きよう。
藤井風を愛するすべての人たちへ捧ぐ、BFF!
2024.9.18