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【短編】もしも隣にいられたら

 かたかたと家具が鳴る音に、ヘッドセットを耳から外した。
 部屋の中を見回す。背の高い本棚が、微かに震えている。パソコンのモニタ、コーヒーの液面、吊り下げられた照明、すべてのものがゆっくりと揺れている。何かが軋む小さな音が、部屋全体の振動と共に耳に届き、私の体を強張らせた。
 警戒する体制でしばらく固まっていると、揺れと音が徐々におさまっていく。部屋に静けさが戻るのと同時に、私の体の緊張も薄れていった。

『サキ、どした?』

 通話の相手、ユキナの声が聞こえて、ずっと両手で持っていたヘッドセットを耳につけ直す。

「揺れた」
『嘘、大丈夫?』
「うん、たぶん震度二くらいやな」

 話しながら、ブラウザで地震速報を調べる。兵庫県神戸市、震度二。予想通り。

『よかったあ、大きいのじゃなくて』
「ね」

 この国では、小さな地震は日常的によく起こる。震度一以上の地震だと、年間二千回は起きているらしい。だから、小さな揺れだったら会話の中でも大した話題にはならず、そのまま流されていく。
 それでも、私は少しだけ、さっきのユキナの声色が気になった。

「心配?」

 私が聞くと、ユキナはわずかに間を置いてから答えた。

『そりゃあ、ね。最近大きい地震多いしさ』
「そうやんなあ」

 去年の一月のことに触れていいものか、私が迷っていると、ユキナから話してきた。

『金沢……っていうか、うちのまわりは大きな被害無かったけど、北のほうはまだ全然復興してないし』
「やっぱりそうなんや」

 ユキナの話を聞きながら、「能登半島 復興」で検索して、目に付いた記事を流し読みしていく。
 環境の再整備が追い付いていない温泉街。山積みの課題を前に営業再開にたどり着けない飲食や酒造業。大雨も含め、度重なる災害に見舞われ疲弊し、移住に心揺れる人々。
 もちろん、復興の兆しがまったく無いわけじゃないし、確実に前に進んではいるのだろう。だけど、元通りになる日は、きっとまだ遠い。

『時間かかるよ』

 ユキナが呟くように言った。
 
 元通りに、なるのだろうか。
 そう考えてしまう。
 私が生まれる少し前に、神戸でも大きな地震があった。家もビルも鉄道も、あらゆる建物が壊れて、あちこちで火の手があがり、人々の生活は滅茶苦茶になった。
 地震が起きてから、もうすぐ三十年になる。学生として外から移ってきた私からすると、神戸の街は元通りになっているように見える。だけど、この街に住んでみたら、あの地震が今でも傷跡として残っていることをはじめて実感した。
 街は綺麗に復興していても、決して誰も、あの地震のことを忘れてはいない。
 一月十七日の講義では、どの先生も必ず震災のことに触れる。中にはいつもの授業を中止して、一時間かけて当時の写真や動画を見せながら当時の状況を開設する先生もいた。小さな地震が起きるたびに、「まあ、震災に比べたらね」と笑ってみせる地元の人たちの声は、消えない警戒心を帯びている。
 神戸の中心街である三ノ宮駅から歩いて十分ほどの大きな公園には、追悼の慰霊モニュメントがある。この公園は毎年、犠牲者の鎮魂を祈るイルミネーションイベントの会場にもなっていて、最終日には「しあわせ運べるように」の合唱とともに消灯式が執り行われる。
 震災のこと。知っていたつもりでも、知らなかった。この土地に住むまでは。
 そして、実感する。
 一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。
 傷跡は、消えはしない。
 この街に住んでいると、心の底からそう感じさせられる。
 
 ユキナは黙ったまま、私の言葉を待っている。
 だけど、散らかった頭の中から、私はユキナにかける言葉を見つけることができない。

「ごめん、ユキナ。私、なんて言ったらいいか」

 長い沈黙に耐えられず私が白状したら、ユキナは優しい声で言った。

『いいよ、大丈夫』
 それからまた、少しだけ会話が途切れた後、ユキナがわざとらしく明るい口調で続ける。

『サキ、あの日まっさきに私に連絡とってくれたじゃん? 嬉しかったよ』
「だって、北陸に住んでるフォロワーって、ユキナしかおらんし」
『それでも、すぐに思い出してもらえるだけでもありがたいって。今も、たぶん能登のこと調べてるでしょ』
「すご、エスパーなん?」
『わかるって、サキ、真面目だし。でも、そうやって思いを寄せてくれるとこ、嫌いじゃないよ』

 嫌いじゃない。そう言われると、嬉しい気持ちだけが先走って、何も言葉がでてこなくなり、ただ変な笑いだけをこぼしてしまう。
 なんて言えばいいんだろう。またわからなくなってしまった。
 ユキナは私が何も言わなくても、私の考えていることとか、感情とかを、まるで自分のことのようにわかってくれる。
 だから、私はそんなユキナに甘えてしまい、自分の気持ちを言葉で伝えるのをためらってしまう。
 ユキナが私の言葉を待っている。
 私は、頭の中でぱっと浮かんだフレーズを伝えることにした。

「元通りには、ならないかもしれない。けど、人の力を信じたいなって、思う」

 うん、とユキナが小声で相槌を打つ。

「それは絆とか、助け合いとか、そういうものかもしれへんけど、具体的に何を指すとかじゃなくて……全部ひっくるめて、前に進むための原動力が人の力なんかなって、そう信じたい」

 だからなんだ、と心の中で自分に意地悪を言ってしまう。
 それでも、ユキナは優しい声で、私の言葉を肯定してくれた。

『大丈夫、伝わってるよ』

 その言葉がとてもくすぐったくて、私は誤魔化すように話を変える。

「そういえば、いつか二人で会うならさ、間をとって滋賀かなーとか話してたやん?」
『うん』
「私、ほんまはどっちかの住んでるとこに行くのもありかなーって思っててん」
『それ、私も思ってた! 神戸行ってみたい』
「ねー。私も石川……能登、行ってみたい」
『あ、じゃあさ、こっち来たらのとじま水族館行こ? まだショーとか見れないとこもあるけど、楽しいよ』
「えー、行きたい!」

 話しながら、神戸から金沢までの行き方を調べる。特急を使えば、三、四時間。お金さえ融通できれば、会いに行ける。
 別にそれで何かできるわけでも、何の助けになるわけでもないと思うけれど。
 行ってみて、知りたいと思った。神戸のことを、ここに来て知ったときのように。
 
 会話がひと段落したところで、ユキナが伸びをする声が聞こえる。

『そろそろ寝よっかなー、明日も早いし』

 その瞬間、にわかに生まれた寂しさが胸の中にあふれてくる。私は本音を隠して、ユキナの言葉を借りる。

「うん、私もそろそろ寝よかな」

 通話、切りたくないな。
 本当は今すぐ会いに行きたい。
 もしも何かあった時、なんで私がとなりにいなかったんだろうって、後悔したくない。
 顔も本名も知らない相手なのに。どうしてこんな気持ちになるんだろう。
 少しの間があって。

『サキ』
「ユキナ」

 二人で同時に名前を呼び、思わず笑ってしまう。

「ふふっ、なに」
『いや、サキのほうこそ、どうぞ』
「あのね」

 瞬間、鼓動が早くなり、こっそりと大きく息を吸う。

「会う約束、今から決めへん?」

 私が言うと、ユキナは、え、と声をあげる。

『嘘、私も同じこと言おうと思ってた』
「なにそれ、照れるー」

 からかい半分、本気半分で言う。

『どうする? こっち来るか、神戸行くか』
「私がそっち行きたい。来週の土曜とか」
『近っ。攻めるねぇ、でも大丈夫、空けとく』

 やった。小さくガッツポーズをする。

「のとじま水族館、行くやんな?」
『もちろん。私運転するし、レンタカー借りて他にもガラス工房とかいろいろ行こ。あと、温泉入って美味しいもの食べてさ』
「泊まり?」
『あ、嫌だった? 今ホテル高いし、うちとかどうかなーって思ったけど』
「ううん、むしろお泊まり会したい」
『よかった。明日また計画立てて連絡するねえ』
「ありがとー」

 ユキナに会える。そんな高揚感と一緒に、安堵の気持ちが心を満たし、緊張感がほどけて眠気に襲われる。一度深呼吸をしてから、最後の言葉をかけた。

「じゃあ……おやすみ」
『サキ』

 今度はユキナだけが私の名前を呼んだ。

『ありがとね』

 何に感謝されているのか、わからない。だけど、きっと私と同じ気持ちなのかもしれないと、そう勝手に思って、同じ言葉を返す。

「こちらこそ、ありがとう」
『ん。じゃあ、おやすみ』
「おやすみー」

 私が通話終了のボタンを押すのを一瞬ためらっている間に、ユキナが通話から抜けた。
 ヘッドセットを外す。部屋はさっきの地震を忘れてしまったかのように、静かなまま。一人なのに大きな音を立ててはいけない気持ちになり、そっとベッドに移動して、等身大のぬいぐるみを抱きしめる。
 
 こんなに静かなのに。
 もしかしたら、次の瞬間には、大きな地震が起きるかもしれない。
 そしたら、私はユキナと会えなくなるかもしれない。
 誰にだって大切な人がいて、大切な場所があって、でも、それはある日、一瞬ですべて壊されてしまうこともあって。
 きっとそれは、私とユキナにも起きうる話であって。
 頭の中でぐるぐると思考が巡る。
 
 静けさを破って、スマホの振動が部屋に響く。
 見てみると、ユキナからのメッセージが届いていた。

『ごめん、サキに会えると思ったら嬉しくて、先にいろいろ調べちゃった。明日の朝でいいから、また見てみて。おやすみ』

 メッセージの下には、能登のいくつかの観光地のURLと、大まかな所要時間のメモが書いてある。さっき話している時から調べていたのかもしれない。かなりの分量で、とても今から読み切れる内容じゃない。

「ふふっ」

 ひとりで変な笑いをこぼしてしまう。
 嬉しい。能登に行けることも、ユキナに会えることも、ユキナがここまで考えていてくれることも。なにより、きっとユキナも、私と同じ気持ちでいてくれたことが、一番嬉しかった。

「ありがとう、おやすみ」

 それだけしか言えない。けど、いつかは素直に伝えられたらいいな。
 そばにいてくれて、ありがとう、って。

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 1995年1月17日、阪神淡路大震災で亡くなられた方に追悼の意を、そして、被害に遭われた全ての方が、どうか、少しでも前を向いて歩いていけるようお祈りしています。

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 こちらの作品は、1月19日に開催される文学イベント北陸にて販売される短編集「想いを寄せてほしい」に収録される予定です。
 ぜひ足をお運びください。

 詳細はこちら:


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