---にちようびのアトリエ---日常にもどりはじめるまえに、ちょっと考えてみたいこと③
スイスへ旅をした頃に働いていた、児童館のことを書いてみたい。
児童館内の図工室は、こどもたちがなんでもつくれる場所だった。手順が決まった工作教室の日もあったけれど、日々の図工室はこどもひとりひとりのアイデアから作品づくりをはじめる(少なくともわたしのいた児童館ではそうだった)。ノコギリを使った木工作に、絵の具あそび、ガラス工芸なんて日もあったし、紙粘土も。相談にのるところからのスタートだから、とにかく時間も手間も人出もかかる。
図工室は、こどもたちが普段手にすることのない道具や素材と出会う場所でもあって、怪我が多いのも特徴。作品をつくる自由と責任、そして大人としてどこまでこどもと真摯に関われるかを突きつけられる場所だった。
毎日が真剣勝負で、こどもたちと本気で言い合いもしたし、活動そのもの
が理解されにくかったから職員同士でもとにかく話し合いをした。日々図工室に立って、ひとりひとりの「今、つくりたいもの」とかかわることが楽しくて、なによりも、生きてるな、という実感があった。あの場所で、ほんとうにたくさんのことを教わった。
たとえば。いろいろおしゃべりをしてお母さんの顔がほころぶと、ずっと泣いていた2歳の子も筆をもち、のびのびと手を動かした。ものすごくイライラして小学校から帰ってきた女の子は夢中になって木工をしているうちに上機嫌になる。中学生女子とはマンガを描きながら恋愛相談をしたり、中卒で働きに出てる十代男子からは工具の使い方を教わり、仕事や結婚やお金のシビアな(そしてわたしよりずっと経験豊富な)話を聞かせてもらった。
こどもから「遊んでお金もらえるなんて」と言われたのも、この頃。彼らの目に、わたしの仕事はそう映っていたんだろうな。今ならそれって最高の褒め言葉なのだけれど。
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スイスの旅、みっつめの場所。
ピーター・ズントーの「テルメ・ヴァルス -therme vals」。スイスの山奥にある、温泉施設だ。
チューリヒから電車をのりつぎ、3時間かけて目的地へ。
バスに乗ると、みるみる標高があがり、途中、霧がではじめた。山の斜面に牧場や山小屋のある風景がつづき、まるでこれから絵本の中へ連れてかれるみたい。木は針葉樹に変わり、岩と緑がどんどん濃さを増した。目的地のバス停で降りたのは、わたしとドイツ人の男の子だけ。ふたりして道に迷ったものの、なんとかたどり着いた。じゃ、と別れて、彼もわたしもそれぞれスケッチをはじめる。ぽつりぽつりと雨がふりはじめた。
雨の滴が敷石を濡らしていた。
石は跳ね返すことなく、すうーっと水を吸い込んでいく。
山の傾斜に沈む雨と、石の時間が奏でるしずけさ。
地層のように重なってできた石の壁は、そのまま建物の中につづいていた。いや、逆かな。裸でふれる(ここは温泉だから)内部の石のやわらかさがそのまま、建物の外側へつづいてぜんたいをつくっている。おそるおそるふれてみると、壁は冷たかった。
水着に着替え、中へ。石の硬質な肌を足の裏に感じながら歩く。内部の明るさはほどよく暗さにちかく、自然のひかりが天井や壁の切れ目から差し込み、そのたびにハッとする。ゆっくり階段を降りた。
水に浸かり、水を浴び、水を飲む。からだのあらゆる部位で、水をからだへ、からだを水へ、その往復は水とからだの境目をなくしていく。
温泉を泳ぎながら、石がこんなにやわらかいのをはじめて知った。ここで涙をながしても、すぐに石と水にとけて、きっとだれもきづかないだろうな。硬質なものは、水と出会ってやわらかなものへと変化する。
知覚をやすめ、自分ひとりのからだとであう。
その土地の、石と水が、とけあうところ。
青いしずけさが、満ちてるところ。
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最近気づいた。
わたしはちいさいころ、ずっとひとりでいたかったんだな、ということ。だけど、まわりの大人たちがそれを許さなかったから、わたしはいつもひとりでいられる場所を探していた。図書室だったり、校庭の倉庫裏だったり、部屋の布団の中だったり。
大人になってからもなにかが欠けてる、と長いこと感じていたのは、ひとりでいられる場所だった。それはときに本だとか、音楽だとか、場所そのものという形をして、わたしの前にあらわれたから、目に見えるものとして、自分の外側にいくつもそれを持つことでわたしはどこか安心をした。おまもりみたいに。そしてときどき、猛烈にひとりになりたくて、逃げるように海外へ旅に出た。
でも、最近はちがう。この自粛期間中、どうしたら自分は安心できるんだろう、とものすごく考えた。安心、と思っていたものは実はいくつものおまもりで、楽しむというよりそれにすがる自分がいる。それは<心地よさ>に近いようでいて、じつは遠く離れている。だから、そのおまもりをひとつひとつ吟味しなおした。これは楽しんでるもの、これはすがってるもの。すがっているのなら、いっそ離れてみる。まだその途中。そういうものがなかったとしても、ひとりでいることも安心も、この場所で可能なのだから。<心地よさ>はひとりのものなのに、広がっていく感じがする。
部屋でぼおっと空をながめていると、しずかで穏やかな時間が流れる。友達と会って、それぞれの時間をともにする。相手の時間と自分の時間が、互いに邪魔することなくそこにある。おおきな友達もいれば、ちいさな友達もいる。あいだにあるのは、一杯のお茶だったり、何色かの絵の具だったり。
なにかをつくったり、人になにかを伝えたりするのは、<ひとり>を立ち上げていくのにとても大切な作業だ。人はひとりで歩けるけれど、<自分>というものを立ち上げていくには、ほかの人やべつのなにかの力を借りなくてはできないんだなと思う。そして、だれかの手になり、足になったとき、<自分>を知る。自分の足で立ちながら、ひとりだけで立ってるひとはどこにもいない。わかってはいるけれど、わたしはできてるだろうか?
<ひとり>と<ひとり>が、であえるところ。
今までのアトリエで、それができてたかって?うーん、たしかにそういうときが何度かあった。でもそれはそのときだけ。なんせ、こどもはすごい速さで変わり続けてるから、喜びの時間はすぐに忘れられていく。すっきり忘れて、またそこに出会いたいからつづけようと思うんだ。スイスの旅のことも図工室のことも、この10年、すっかり忘れてしまっていた。
昨年、仕事を辞めて、会社からも社会からもすこし距離を取り、ひとりでいるようになってやっと「どうやらわたしは学校も会社も行くの苦手だったみたい」とわかった。自分の足で立って生きてるひととも出会えるようになったし、なによりも自分が健やか。そんな友達とも出会った。
そのことを友人に話したら、「生きてるうちに気づけてよかったじゃん」と軽くあしらわれた。まぁ相変わらず、遅めのスタート、ってことで。
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