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森光七彩の生い立ち⑥

中学1年生の時、友達との出会いで、アオギリのうたを歌うことを嫌に思うことはなくなっていきました。

私だけの歌ではなく、"広島の歌"になっていることを実感。どんな依頼も受けようと、またステージに立つことになりました。

その思いは今もなお変わっていません。

話を元に戻して…

アオギリのうたを受賞した小学3年生の時、もうひとつ大きな賞を受賞しました。

小学生の時から、カワイのドリマトーンという、電子オルガンを練習していました。

両親ともに子供の時からやっていて、家にはオルガンがありました。

右手がメロディ、左手がコード(伴奏)、左足がベースと言って、足鍵盤を使う、なかなか体力のいる楽器です。

小学1年生の時には既にコンクールに出場していました。

翌年、小学2年生の時に、中学1年生までが出場できる部門に出ました。

県予選のあと、中国ブロック、そして各ブロック1人ずつが全国大会に出場できます。

私は、スルスルとかいくぐり、最年少記録で全国大会に出場し、最高位の金賞を受賞することになりました。

ただ、2人金賞がいるという結果で、もうひとりは中学1年生の人でした。

年下とあって、控室ではいろんな人たちが優しくしてくれたことを覚えています。

受賞したときは小学3年生。

そう、アオギリのうたを受賞する3ヶ月前のことでした。私は若干9歳で、二つものグランプリを受賞してしまったのです。。

この時は人生うまくいきすぎてすごいな〜なんて思っていました。笑

1年休憩をして、小学5年生の時には、高校1年生までの部門に出場。

またしても、最年少記録で、最高位の大賞を受賞。

(未だ破られていません)

賞金と、副賞として電子ピアノをもらいました。

アオギリのうたも賞金があったので、小学生でいくら稼いだのでしょう…なまなましいのでやめておきます。笑

小学生のときは、このように、絵に描いたような順調具合。

さまざまな県で演奏しました。

東京、福岡、長崎…小学生ながら、楽しかったのを覚えています。

電子オルガンに主軸を置いた生活でしたが、いろんな習い事もしていたんです。

それはまた明日☺️



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