『腕まくら神話』に終止符を。
腕まくらする慣習は廃止すべき、という話を飲み会でしたら、意外にもアラサーのOLふたりから、まずまずの賛同を得られた。OL曰く、「最初はまぁ嬉しいけど、寝てる途中で気になる」「でも、相手の優しさを拒否しているようで断るに断れない」と。
ぼくは学生時代、少し大人ぶってやろうと、苦いビールを飲み、吸いたくもないタバコを吸い、当時の彼女に人生で初めて腕まくらをしてみた(もちろん、さも慣れてる風に)。ところが、夜中に尋常ではない腕のしびれを感じて目を覚まし、「冗談じゃねぇぞ!」と叫びそうになった。ひとり、暗い天井を見つめながら、大人の愛の『重み』を噛みしめたものだ。
念のために言っておくと、彼女の頭が特別に重かったわけではない。一般的に頭の重さは体重の1割ぐらいだと言われ、たとえば ”天使よりも可憐” とされるゆうこりんでも体重が40kg前後だから頭は4kgぐらいということになる。4kgといえば『漬け物石』としてもそれなりの重さであり、腕まくらとはすなわち「一晩、腕を漬けておくこと」と説明する国語辞書が世の中にあっても、それほど不思議ではない。
しかし、お気づきだと思うが、腕のほうは「漬けられること」を想定してできているわけではない。腕は漬けられると痛いし、自由に寝返りも打てず、たびたび起きてしまってあまり寝た気もしない。
睡眠への弊害という点では、女性側から見ても同じはずで、男の腕を純粋にまくらとして捉えた場合、その機能性は大してよくない。というか、ふつうに悪いと思う。ドラマで見る江戸時代の堅そうな木のまくらに比べれば幾分マシかもしれないが、今は江戸時代ではない。平成の今は、ニトリの1,980円のまくらの方がよっぽど通気性もよく安眠できるはず。つまり、腕まくらは、男女双方にとって損、Lose-Loseな行為なのだ。
まあ、一晩中は難しいにしても、寝てしまうまでのあいだ、小一時間ほど腕まくらをするというのも理解はできる。純愛ぶった、腕まくら肯定派が言うように、腕まくらは甘いムード作りのためには大きな意味があって、欠かせない儀式の一つだという主張も強くは否定できない。
だが、それはわかったとして、いざ眠るタイミングになって本当に、「んじゃ、そういうことで!おやすみ!」と言ってサッと腕を引っ込められるのだろうか? その割り切った感じも、純愛純愛言うわりにはなんか違う気がする。うまく言えないけど、ぼくには、ベクトル的には「シャワー浴びたらすぐに帰れよ」と同類の行為に感じられて寂しい。
とりあえず小一時間、のつもりで腕まくらを始めたが最後、結局、純愛プラトニックな空気に流されてそのまま寝てしまうのがオチだ。最初のうちは腕だってぴんぴんしている。時間差でおそってくる猛烈なしびれをリアルには想像できないから、楽勝な気がする。だが、どんなにシャキシャキしている白菜もいつかはシナシナになる。白菜も腕も、じっさいに漬け物にされてはじめて、「あっ!ぼくのシャキシャキ感がー!」と気付き、軽率にも石に敷かれてしまった自身の行動を悔やむのだ。
☆ ☆ ☆
洋画やテレビドラマの影響からか、腕まくらは愛情表現の一つとして広く浸透している。男は腕まくらしないと重要な義務を果たしていないような後ろめたさを感じ、女は腕まくらされないとあまり愛されていないのではないかと疑うふしがある。
そのため現場では、慣例を踏襲する形で、男はしぶしぶ腕を差し出し、女はしぶしぶ頭を乗っける。しかし、本音ベースでは互いに疲れることの方が多く、思いきって止めてしまった方が両者にとっては望ましいケースが多い。そういえば、つい数年前に始まったクールビズだって、誰得感満載でつけていたネクタイを思いきって外してみたら、みんなハッピーになって朝の満員電車の殺気が少し和らいだではないか。
問題はクールビズと同じで、みんなで足並み(腕並み)を揃えて腕まくらをやめないと、世の男女関係がカオスになってしまうということだ。こっちがクールビズに乗り気でも、世間でいまいち認知されておらず、「え?君はなんでネクタイつけてないの?なめてんの?」と思うお客さんがいたら外すに外せない。
腕まくらも、「しないのが普通」という共通認識を、まずは男女間でしっかりと根付かせる必要がある。こういうときは基本的にはお上が旗を振って国民を啓蒙するのがセオリーだと思う。私見では、たとえば元号が変わるときなどが、長くはびこった『腕まくら神話』に終止符を打つタイミングとしてはちょうどいいんではなかろうか。
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