夢を夢見る:文化としての夢創作と記録
このnoteで「夢創作は文化としての記録があまり残されていない」と書いたあとで、「夢小説に言及している書籍や論文」を自分が実際どれくらい観測できているのか気になったので整理してみる。
読んだもの
腐女子と夢女子の立ち位置の相違 / 吉田栞、文屋敬
本稿で対象とする腐女子および夢女子は,受け取る側からイメージを共有
できないと宣言された〈告白〉を持つ少女たちである。腐女子は「私」の存
在を消し、男性キャラクター同士による同性愛的関係を愛好しているといっ
た〈告白〉が一般的な少女コミュニティにおいては共有されないものだとい
うことを理解している。だからこそ「共有されないなら、それで構わない」
と個々の世界を作り上げた。それとは反対に、夢女子は「共有できないなら、できるようにすればいい」と独自の機能を用いることで現実世界と二次元の世界を繋げた。それは夢女子が「私」という存在を中心にすえた関係イメージを保有していたからである。
少女たちが<告白>を通じてイメージの共有を行うことでコミュニティと繋がっているという前提で、コミュニティから排除された結果「私」という存在を廃した「腐女子」と「私」を中心に据えた「夢女子」を比較し、それぞれの物語に対する「私」をどう位置付けているかを女性性が「眼差される性」であることに関連づけて論じた2014年の論文。
この中で夢女子は「「私」と男性キャラクターによる異性愛的関係を築くことを好む女性たちのこと」であると定義され、「不特定の人物との「一対一」の関係を築く物語である」夢小説世界で「私」が存在を確立するとき、「キャラクターのポジションを模倣することで存在を確立させる手法」と「キャラクターとの「成り代わり」という手法」のどちらかの方法がとられているという。
論文のテーマが少女のコミュニティなのでシスヘテロの恋愛に関係する夢小説に限定されているため、いわゆる「世界観夢」や「BLD」などの存在への言及はない。「夢女子」と「腐女子」は対立するものではないのだけれど、それはここでの論点ではないので仕方がない。
異投射・虚投射の発生と共有: 腐女子の妄想と二次創作を通じて
作者が作り出したものを、読者は読者の目で見る、両者は同じものを見ているが、その見え方はそれぞれ違っている。そのような心の働きは投射(プロジェクション)と呼ばれる心的過程の一つである (川合, 2018)。
(中略)
たとえば、既存の物語から別の物語を派生させることはプロジェクションが不可欠であると考えられる。なぜなら派生作品は既存の作品を、そのまま認
識するのではなく、別の物語として見る、すなわち異投射や虚投射という過程が含まれるからである。
腐女子がどのように男性キャラクター同士の関係性を見出し、恋愛二次創作を生み出すのかについて認知科学の中でもとくにプロジェクション科学の観点から論じた2019年の論文。この論文内において「夢」はこのように定義されている。
3) 例外的に、自分自身が登場する願望的空想の二次創作として「夢(ドリーム)」と呼ばれるジャンルがある。芸能人やアニメのキャラクターなどを対象に願望的空想が展開される作品の中で、ある特定の登場人物に読者が自分自身の名前などを自由に入力できるようにした二次創作がそれにあたる(たとえば,アニメのキャラクターである C が読者自身の名前がついたヒロインとひょんな事から出会って特別な好意を寄せてくる、といった小説など)。この場合,ある特定の登場人物を全てその名前で表記させるという操作が必要になる。そのため、CGI やJavaScript を使った「名前変換機能」(吉田・文屋, 2014)などが可能なウェブサイト上で閲覧する作品として作成・発表されるものが多い。
腐女子の妄想や二次創作が「願望(自分が好ましい読み替えをおこなっている)や没入(読み替えをおこなうくらい熱心に向き合う)を含みながらも、自身はその妄想に不在である」のに対し、夢は「自分自身が登場する願望的空想の二次創作」として扱われているのかな。
既存のキャラクターや設定などを利用して空想を楽しむのは腐女子だけではない。誰しもが多かれ少なかれ勝手な空想をしたことはあるのではな
いだろうか。腐女子の妄想(異投射)が他の空想とは異なる特徴を明確にするために、既存のキャラクターや設定などを利用した他の空想事象と比較する(表 1)。比較する空想事象は、以下の 3 つである。(1) 腐女子の妄想。(2) 自分自身が登場する願望的空想(たとえば、ある男子高校生自身が「担任の若い女性教諭から自分だけ放課後の誰もいない教室に呼び出され、特別な好意を告白されて親密な間柄になる」、などと想像して楽しむ場合)。(3) 物語世界に入りこむ代理的な疑似体験としての空想(たとえば、ファンタジー冒険小説を読んで自分が世界を救う主人公になりきった仮想状態に没入する場合)。
あとはこのあたりの話が「夢創作」の話をするときに切り離すことができない「自己投影」について考える際に役立ちそう。ただこの論文で初めて「プロジェクション科学」という言葉を知ったぐらい専門外なので、もうちょっと他の物を読んで知識を補完したい気持ちはある。
このへんとか。この論文の文献を見ると、「腐女子」にまつわる資料はたくさんあるのに「夢女子」に関する資料が先に上げた「腐女子と夢女子の立ち位置の相違」だけなのが(主題ではないとはいえ)つらいね。
サイゾー 2020年6月号
「夢女子」とはなにか?ざっくり解説!
夢女子とは、読み手が自己投影しやすい主人公と、漫画やアニメのキャラクターの(主に)恋愛関係を描いた二次創作を楽しむ女性オタクのことを指す。「夢女(ゆめおんな/ゆめじょ)」と呼ばれることも。
男性キャラクター同士の関係性を楽しむ「腐女子」とは別の概念である(「夢女子」と「腐女子」を両方楽しむケースも多々ある)。
読み手自身が主人公視点となる物語の構造上、二次創作はマンガよりも小説のほうが主流。「夢小説」と呼ばれ、インターネット小説投稿サイトの浸透により、女性オタクの間で文化として定着したと考えられている。
なお、実在するアイドル等にこの概念が使用する場合もあるが、本稿では主に二次元コンテンツの「夢」を取り上げた。
という「配慮」を感じる定義付けのもと三人の夢女子(うち二人は腐女子でもある)たちの対談を取り上げたもの。「性愛禁論」という特集なので恋愛夢を中心に扱ってはいるが、めちゃくちゃ丁寧。「夢の定義にはいろいろある」と語られている時点で最高なのでオススメ。
ユリイカ2020年9月号 特集=女オタクの現在――推しとわたし
ユリイカ2020年9月号についてはこちらのnote
がわかりやすいので詳しい説明は省略するね。夢創作への言及は吉澤夏子「<私>の性的主体性 腐女子と夢女子」、汀こるもの「審神者なるものは過去へ飛ぶ それは歴史の繰り返し」、青柳美帆子「オタク女子たちが『自重』してきたもの ネットマナー、半生、夢小説」の三本です。
ゆめこうさつぶ!~庭球日誌~
私も通った夢創作内の一大ジャンル「テニスの王子様」の夢小説を題材に夢小説について考察した同人誌。2014年にweb再録されたので、無料で読めます。「腐女子と夢女子の立ち位置の相違」やユリイカの「<私>の性的主体性 腐女子と夢女子」でも文献として挙げられているもの。後日webサイト上に追加された補足ページ
からもわかるように、ここでは夢主=誰にでもなり得る誰か(キャラクター性を極力排除し、読み手が自己投影をしやすくした、いわゆるモブキャラに近い平凡・無個性夢主と呼ばれるタイプ)であると定義されている。ので個性の強い夢主や男夢主を扱っている人の視点は全く含まれていない。
夢小説の読み手はおそらくほとんどが女性であるだろう。女性が夢小説を読むとき、名前変換対象を「誰にでもなりうる誰か」すなわち「誰にでもなりうるならば、私でもありうる」存在として認めるには、もちろんその存在が女性として登場してくるのでなくてはならない。
けれども女性の読み手にとっては、男主人公は異性であるがゆえに決して「私ではありえない」存在である。
このへんとかは同意できない。私はこういうタイプ
キャラクターに恋する私も、隣のクラスのあの子も、キャラクターに埋められる僕も、キャラクターカップルを観測する俺も。すでにこときれたアタシも、道行く猫もモブおじさんも無機物も、作者がそれを夢だと思って創作すればみんな夢主人公になり得るのだ。 だからキャラクターと付き合っても、殺しあっても、一緒に死体を埋めに行っても、街角ですれ違っても、週に一度カフェでやりとりしても、家族になっても、別れても、崇拝しても、村を焼かれても、広い世界の中で一度たりとも出会うことがなくても、それは夢になれる。
の夢者で、夢は限りなく自由であってほしいと思っているので……。ちなみに女審神者にまつわる2015年のこの対談
で「Pixivには名前変換がない」と言われてから5年!Pixiv(ブラウザ版)に単語変換機能が実装されたよ!やったね!
オトコのカラダはキモチいい / 二村ヒトシ・金田淳子・岡田育
正直この本について言及するか迷った。何故ならここでの夢創作に関する言及が、おそらく下調べなしで語られたあまりにも偏見にまみれた雑なものだからだ。
金田:腐女子の中にもいろいろな意見があると思うんですけど、「仲の良い男同士の間に女の自分が入りたい」と思っていない人が多いと思います。「かっこいいキャラとつきあいたい」って思うタイプの人たちはBLとは別に「ドリーム」と呼ばれる作品で楽しんでいますからね。もちろんそういう楽しみ方もありだと思うのですが、個人的には、良さがまったくわからなくて。「キャラクターのいる二次元に、三次元の自分は入らないでしょ!」と思ってしまう。それに、二次元かどうかにかかわらず、自分が入ると世界観が壊れてしまうじゃないですか。
二村:自分が入り込むと、その世界観が完結しなくなるってことですね?
金田:そうです。自分が入り込んでしまうことで、私が好きだったそのキャラと世界観が違うものになってしまう。(中略)まあそれ以前に、私はそのキャラを愛したいだけであって、そのキャラに愛されたいわけではないという気持ちもありますね。
岡田:私もドリームは苦手だなあ。自己評価が低いせいでしょうが……。もしも私が超絶イイ女だったら、と夢想する前に、貴様ごときがおこがましいわ!って自分に腹が立っちゃって、没入できない。
こんな話をしているのに、そのすぐあとに
金田:私が作中に入るんだったら、キャラを路地裏で待ち構えて、痒い所に手が届くような、至れり尽くせりの輪姦をする、モブのチンピラにはなりたいを常々思います。
と書かれていて「いや夢やんけ!!!」になった。これは私の思想なので押しつける意図はありません。まあこの本自体が2015年に発行されたもので、著者の一人である岡田育さんも
昨年Twitterでこんな風に仰っているので(詳しくはTwitterに飛んでツリーを見てね)……。仕方がない……それにしても悲しいね……。
まだ読めていなくて読みたいもの
Queer som doujinshi: En fallstudie av Yonezawa Yoshihiro Memorial Library / Watanabe, Yukina
Liksom Kinesella (2000) problematiserar Tagawa (2009) att otaku i många fall
förknippas med manliga otaku och att det inte finns mycket forskning om kvinnliga otaku. Ueno (2007), en forskare inom feminism, uppskattar hur kvinnliga otaku med intresse av homoerotiska relationer mellan män kan identifiera sig med kategorin fujyoshi (腐女子). Tagawa (2009) likställer kvinnliga otaku med fujyoshi, men det ska påpekas att kvinnliga otaku inte är en homogen grupp. Yumejoshi (夢女子) syftar till exempel på kvinnliga otaku som drömmer om romantiska relationer mellan sig själva och manliga fiktiva figurer.
論文内に言及があるのは観測したが、デンマーク語が読めないので読めずにいる。"drömmer om romantiska relationer"だからキャラクターと恋愛関係を構築するものとして定義されてるっぽい。
この明治学院大学長谷川ゼミ八期生卒業論文一覧ページにある「キャラに恋するオタク女子――『銀魂』関連記事にみる自己肯定と承認欲求」という卒業論文で「夢女子」と「腐女子」への言及があるらしい。
The Fanfiction Reader: Folk Tales for the Digital Age / Francesca Coppa
2017年に発行されたデジタル化時代におけるファンフィクション文化とその読者について書かれた書籍。
More recent fans talk of one shots (vs. serials) and have developed genres like the alpha/beta/omega (A/B/O) universe, where sexual roles have a biological basis and are adopted from the study of animal behaviors, or imagines, self-insert teen fantasies ("Imagine being friends with Catwoman and your father, Bruce Wayne, catches you while stealing jeweks from a rich family," "Imagine passing notes to Harry in class"). The point here is not to catalog all the various tropes and genres, which I couldn't possibly do anyway, but to argue that fanfiction is written within and for particular communities that have highly specific expectations for fiction, which can be seen in their elaborate vocablary and critical literature, which hans call meta. (P9, Introduction)
Google Booksで少し試し読みしてみたが、英語ファンダムにおける夢小説(と似た文化:x-readerやself-insert, original characterなどと呼ばれる)についていくつかの言及を見つけた。
While fandom has back-formed the labels "Gary Stu" or "Marty Stu" to describe a male self-insert, these terms haven't had the same chilling effect. Even today, some fans worry about having their original female characters labeled as Mary Sues, which is to say as unrealistic, poorly characterized fantasy figures. (P. 48 The FBI Agent's Tale)
これはXファイルのファンダムに存在する「メアリー・スー」とその男性版の「ゲイリー・ステュー」や「マーティー・ステュー」の扱いの不均衡さについて触れた部分。ポップカルチャーファンダムにおける性差の話は世界共通なんだな。
Magical Me: Self-Insertion Fanfiction as Literary Critique / Melody Strmel
Self-insert fic happens when the author inserts themselves into a story
or its universe, either directly or through a character avatar.
Self-insert fanfic is, among many other things, a way to reconcile a reader's experience and interpretation of a text and its bearing on their own life.
「Self-insertタイプのファンフィクションは、自己を媒介とすることで作者の内面と現実世界に対する認識を反映する文芸批評として読みとることができる」という2014年の論文。
宝塚・やおい、愛の読み替えー女性とポピュラーカルチャーの社会学ー / 東園子
直接「夢創作」について言及はされていなさそうなのだけれど、文化として「夢創作」について言及するのであれば読んでおいたほうがいいかなと思っている。
おまけ:「外」から見た「夢」に関する資料になりそうなもの
同人用語の基礎知識:夢小説
メアリー・スーはデジタルな夢をみるか
夢小説の生誕とともにあったと言われるキャプテン翼全盛期を観測しておられた方のエッセイ。メアリー・スーに関しては、「最初にメアリー・スーという名前を生み出した」とされるポーラ・スミスさんのインタビューがここで読めるよ。
おわりに
去年から放置していたこの記事に手をつけたのは、2021年にもなってTwitterで「猿でもわかる同人マナー」のURLが回ってきたりmonokakiというメディアが2018年に投稿して軽く燃えた「君は知っているか、占いツクールという投稿サイトを」という記事を何故か全くアップデートしないまま投稿したのを見たからだ(2021年01月18日午後4時頃、その記事は非公開になった)。内容としては「夢小説文化の凄いところは、職場の女子たちの反応からもわかる通り、一定の年齢になると卒業し……」みたいな、「現在進行形で存在しているのにもかかわらず過去のものとして葬り去られネタにされる」いつものやつ。
まだ一月なのに……世界……どうして……?
これは昨日フォロワーさんが投稿したnote記事なのだけれど、ここで述べられているように夢創作はいまでもひっそりと隠されているものが多く、存在を過去のものにされがちだ。私は夢創作もBLも好き。だからこそすでにたくさん文化として論じられているBLのように、夢創作も文化として記録に残ってほしいと思っている(夢とBLは対立するものではないので本当はあまりこういう言いかたもしたくはない)。いま現在も夢創作は行われているし、個人サイトにもPixivにもその他の場所にもたくさんの作品が存在しているものだから。
(昨年起こった諸々に関する運営の対応的にnoteを使いたくはなかったのですが、他に使い勝手がいいものを見つけられていないのでとりあえずここに載せます)