【7月前半の編み物log】成形する解体
初期衝動はいつまでだったら乗り越えられていると言えるのだろう。
編み物をはじめて2ヶ月ほど、その雑記。
これまでの人生は本当に無趣味だった。
編み物は趣味かと言われると、
これまでに趣味活動の実感を持てていなかったもので、よくは分からない。
でもたぶん大好き。
始めたばかりでとかく四苦八苦することが多い。
こんなことして何になるかも分からない。
インスタにあげてもスパム詐欺しか来ない。
人生ではじめて恐る恐る未知なる世界の手芸店に踏み入れ、
簡単な英語ですらすら読めていく洋書や海外動画を漁り、
少しずつ新しい言葉や色彩が目の前で現像されていく。
誰かと共有することはできないけれど、
独りで密かに面白くなることはいろいろ。
たとえば、これまで手芸と無縁の自分は
手芸店を認識したこともなかった。
たぶん通ったことはあるかもしれないけど
意識に昇ることはなかった。
中古書店の洋書の仕分けや値段勘定のバイトをしていたときも、
手芸コーナーはぱっと見華やかだけど
大判で埃を被らせやすい要掃除対象としか思えなかった。
実際おぼろげの記憶の中のあそこの手芸古本コーナーは、
なぜか同じフロアの他のコーナーより照明が薄暗い気がします。
なんでだよ。
スピリチュアルと占いと哲学が不可逆の法則みたいに
混ざり合ってしまう気まずい棚の方がまだ明るかった記憶がある。
近くの手芸店を調べる。
へえ、ユザワヤって温泉とかじゃなかったんだ。
へえ、横浜の遊園地ドリームランドみたいな名前のところも大きいのねー。
はじめて行く田舎イオンの最大級手芸センターの店内。
SNSでめまぐるしくクリエイティビティの最先端を更新されていく
キラキラハンドメイドブームなどお構いなしの
前時代的な雰囲気だった。
「えこれブラウン管テレビ?」と目を疑いたくなるような
風貌の小ぶりの箱から、
「研究によれば手芸は脳トレになります!」という
砂嵐に似合いそうなビデオ映像が
販促スペースの棚の間から繰り返し流れていた。
その隣のワゴンセールのトルコのグラデ糸に目を奪われてぼーっとする。
自分なりにコスパと用途を鑑みて厳選した毛糸を買って、
手当たり次第思いついたものを調べながら作っていく。
小物入れ、あみぐるみ、コースター……
素敵なものをそっくりそのまま再現するのも楽しいし、
基本形とアイディアの組み合わせで
オリジナルのものを生み出すのも楽しい。
ちょっとした失敗は思い出や味になるし、
完全失敗してもやり直しがきくし、
そのたび編む動きに手がじわりと馴染んでいく感覚も自分を新しくさせる。
毛糸での立体的造形は錬金術のようで摩訶不思議。
その法則や思考法の奥が深くて
理解するのにまだまだ時間がかかりそうだけど
夢がたくさんで、どこまでも惹かれてしまう。
編み図も起こしてみたりした。
ソフト探しに些少の時間がかかったけど、
結局フリーソフトのInkscapeで十分不自由なく快適に書けて定着。
いつか自分でもオリジナルが書けたらいいな、なんて。
小物をひとつ編むたび、糸はものに成形される。
私はそのたび編むことに取り憑かれて
心が編み直されていく。
重苦しく恥ずかしくみっともなく
悪魔のように惨めな意識と記憶は
編み物中でもよくぶり返す。
でもささやかな編み物をひとつ終えるたび、
記憶の陰影を強固にしていく意識がすこしだけ解体されたことに気づく。
重曹とクエン酸。シュワシュワ。
お気に入りのコップの茶渋が落とされてスッキリ!
このような日々の暮らしの中での素朴な感動と同種なさりげなさがあった。
まだまだ編み物の楽しさに取り憑かれていたい。
編み物はひとつの言語。
自分自身を再構築し、自分と世界との繋がりを取り戻すものかもしれない。
だとすれば、言語と同じように、
ベクトルは成長とか向上ではないし、善悪もない。
ただ夢中に(そう取り憑かれ)、ただ誠実に(そうあらねばならず)。
白昼夢のように空白に溶かされれればされるほど、
意味から自由になり、無駄の豊かさの降雨を身に纏える。
そんな気がしている。
文章(text)は「織られるもの」ならば、
織物と同様、手触り(texture)の世界にあるはず。
そこから虚実の物語や、運命や人生の筋書きを
織りなす入り口を発見し、辿っていく先が見てみたい。