スキー
お久しぶりです。
随分前に、修学旅行で北海道に行きました。
季節ハズレの、感想文。
私はただひたすらに怖かった。何が怖いのかわからなかった。高いところは苦手じゃないし、どちらかというとスピード狂だし、地面に足はついてるし、滑ることに抵抗はない。私は何をこんなにも恐れているのか。私の膝はどうしてこんなにも震え続けているのかーー、ああ、そうだ。私は曲がるのが怖いんだ。曲がるときに体を傾けるのが、身体のバランスが崩れるのが怖いんだ。思えば、初めて自転車の補助輪を外した時も、体を傾けずハンドルだけを回して曲がろうとして、長い間こけ続けていた。思えば父とバイクのツーリングに行く時も、山道のカーブはどんなにスピードを落としていても怖かった。直線を爆速でぶっ飛ばし、全身に風を受ける方が余程気持ちよかった。思えば進路を選ぶ時も、私は一度決めた道を逸れることが怖かった。こけるのが怖かったわけではない。人一倍ドジな私は、これまで何度も何度もこけてきた。こけること自体に恐怖はない。けれど、けれど、ーーそうだ。私は起き上がれなくなることが怖かった。アスファルトの上で派手に転んだ時も、足の震えは立ち上がってしまえば消えていた。自分がまだ歩けると分かれば、安心した。
私は、ほんとうはとても怖がりなのかもしれなかった。だから私は、脇目もふらずに走り続けてきたのかもしれなかった。私は、分かれ道にあった時、多くの選択肢を吟味して、あるいは直感で、自分の進む道を、自分で選んできたと、思っていた。それが私の誇りでもあった。河合隼雄は、道草によってこそ「道」の味わいがわかると言った。これを読んだ時、私は、自分が道草したことがある、という謎の自負を感じた。私は、決して大勢に迎合するということはなかった。他の人が選ばないような獣道に挑んだ、という謎の自負もあった。
けれど、私はほんとうに自分の道を「選んで」きたのだろうか。私は、倒れてしまうことが、止まってしまうことが、起き上がれなくなってしまうことが、進めなくなってしまうことが、ひたすらに怖くて、ただ目を瞑って、真っ直ぐに走り続けていたのではなかろうか。真っ直ぐに進んだ先で、たまたま道から外れて、たまたま獣道に入ってしまったのではなかろうか。
けれど、私は、曲がってしまった。自分の思うように動いてくれない細い板に足を固定されて、人より不器用な私は案の定バランスを崩した。細い板は私をあまりにも白くて冷たい大地に縛りつけた。私はとうとう立ち上がれなくなってしまった。
もうだめだと思った。私の脚は、冷たく硬く、震えていた。立ち上がれなかったら、私は進めない。私は小さい頃からずっと、何かに追い立てられていると感じていた。止まることは、何よりも重い罪のように感じていた。一体全体何が私を追い立てるのか?兎にも角にも私は走り続けてきた。何度こけても立ち上がり続けてきた。
もうだめだと思った。そうしたら、急に、細い板の呪縛が解けた。彼は、私の身体をやすやすと起こし、私を地面に立たせた。私の隣には、友人が待ってくれていた。私ははじめて、「他者」の存在を知った。私が立ち上がれなくなっても、私を立ち上がらせてくれる誰かが、いるのだということを知った。思えばこれまでも、私は知らぬ間に誰かに立ち上がらせてもらっていたのかもしれない。目を固く瞑って、進むことだけを考えていた私は、ただそれに気づいていなかっただけなのかもしれない。
目を開いて、進もうと思った。いまだに何かが私を追い立てる。けれど、その恐怖に打ち勝って見せようと思った。そうしたら、私も誰かを立ち上がらせることが、できるのかな。