【短編小説】月と金木犀
『今、すごく空が綺麗だよ、』
模試帰りの電車。彼女はいつもの特急ではなくて、敢えて普通電車に乗りました。一度は椅子に腰掛けますが、すぐに立ち上がって移動し、先頭車両のドアにもたれかかったようです。物憂げな瞳で夕暮れ時の空を見上げます。美しいグラデーションに染まった空に、幾筋かの低く黒い雲が走っています。
『小説だったら、この雲はどんな心理描写かしら。』
彼女は思います。彼女はおもむろにスマホを取り出し、写真を撮ります。
『明日、見せたいな。』
しかし、空というものは写真に撮ると良さが半減するもの。私は自分の写真写りの非常に悪いことを知っています。プロにとってもらえ得るとそれはもう本当に綺麗に写るんですけどね、なんて自分でいうのは烏滸がましいですね。
彼女は思ったように撮れなかった写真を見て少し顔を曇らせ、緑のアイコンのメッセージアプリを開きます。少しスクロールして開いたトーク画面。彼女は少し考えた後で打ち込みます。
『今、空がすごく綺麗だよ、』
彼女は再び顔をあげ、空を見つめます。さっきよりほんの少し西に傾いたお日様は、筋雲をよりくっきりと引き立たせています。彼女は顔を落とし、トーク画面を見つめ、バックスペースキーを長押しします。まだ送っていなかったのね、
『やっぱり忙しいよね。受験生だし。唐突すぎるし。』
彼の机に向かう姿を想像した彼女の頬には、ほんのり赤みが指しました。彼女はしばらく逡巡し、三度顔を上げました。今やお日様は沈み、山際にほんのり赤みを残すのみです。黒い筋雲は形を変え、ふんわりと花びらのように漂っています。彼女は目を見開き空を見つめます。彼女の儚げな瞳は、刻々と表情を変える空に吸い込まれていくようです。彼女は三度、スマホに顔を落とします。トーク画面はまだ、開かれたままのようです。彼女は再び逡巡し、同じ一文を打ち込みます。
『今、すごく空が綺麗だよ、』
彼女はやっぱり送信ボタンを押せないようです。
彼女の脳裏に蘇るのは、中学時代の部活の後輩。彼女にとって、最後の大会の1週間前。いつも通りに取り繕ってはいるけれど、明らかに固く、遠くなってしまった、「先輩、」という声。思い出すたび、彼女の心はざわざわと逆立ちます。
『私は何を間違えたんだろう。どこで間違えたんだろう。』
何度も何度も何度も繰り返した問いを、彼女はまた、繰り返します。
『あの時、きっと私は、言ってはいけない一言を、言ってしまったんだ。でも、言わなかったら?言わなくても、でも、結局、一緒だったんじゃないのかな、もうずっとずっとずっと前から、私は間違えてたんじゃないのかな。』
何度も何度も何度も繰り返した問いに、彼女はまた、同じように答えます。彼女は昨日、図書館で見かけたポップを思い出します。『あなたが戻りたい過去は、いつですか?』
『私が戻りたい過去は、いつなんでしょう。私はどこかで間違えた。私はどこで間違えたんでしょう。教えてください。』
何度も何度も何度もくり返した願いを、彼女はまた、繰り返します。答えが返ってこないことを、彼女は知っています。それでも彼女は、繰り返さずにはいられないのです。『汚れてしまう前に 大事に壊せますか?』彼女は何度も何度も何度も聞いたプレイリストを、頭の中で再生します。
『いいえ、私は、汚してしまった。それどころか、癒えない傷を、つけてしまった。大事なものなのに。大事にしてたのに。なのに、壊せなかった。でも、壊れてしまった。私が、壊れさせてしまった。出会わなければよかった。綺麗なうちに、大事に壊してしまえばよかった。もう、同じことは、繰り返したくない。汚れてしまう前に、大事に壊してしまいたい。でも、どうして、どうして、こんなに、壊したくないと思ってしまうの、』
彼女は再びバックスペースキーを長押しします。彼女は、また汚してしまうことが、また傷をつけてしまうことが、怖いのです。電車はホームに入ります。彼女はスマホを閉じて、リュクを背負います。改札を出た彼女のセーラー服の裾が、ふわりと金木犀の香りに靡きます。彼女は一瞬足を止め、空を見上げます。いつの間にか雲は薄く広く空全体を覆い、グラデーションは濃く、深い青へと変わっていました。お日様の名残は、もうありません。けれど、私の反射する光は、彼女を明るく照らします。彼女の頬には、一筋の涙。私は少し悲しくなって、雲のベールに隠れました。
私は、知っています。彼もまた、空を見上げ、彼女とのトーク画面を開いていたことを。
今日もまた、漆黒のベールが彼女と彼の、小さな秘密を包みます。
ヘッダーは、二年前の皆既月食。