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影法師の頭部

「千の点描」 <第一一話>

私はいつも、黄昏時に人と並んで歩くのを避けていた。なぜなら、私の影法師には頭部が無いからだ。同じくらいの背格好の人と横に並んで歩くと、私の影法師はその人の影法師より頭分だけ短く見えるのだ。今までそのことを人に気付かれたり、不自然さを指摘されたことはないが、その事実を自覚してからは、本能的とでもいうか、人に知られることは絶対に避けようと決意していた。しかしそれは簡単なことではなくて、子供の頃から悲しいくらい細かいことに気を配っていた。基本的には、出来るだけ友達と横に並んで歩く機会を持たないようにしていた。しかし、学校などでは集団行動は避けられないことであり、遠足で隊列を組む時や、体育の授業で整列する時などは、どうしても一緒に歩いたり、横に並ばなければならない。そんな時でも、私がさりげなく一歩、二歩友人たちの先を歩き、あるいは立ち位置を少し調整するなどして、私と一緒に歩いたり並んだりしている人の影法師と、頭の高さを揃えるように心掛けてきた。
 
最初に、自分の影法師に頭部が無いことを知ったのは、何十年も前の幼い頃のことだった。初めは、自分の影法師を追って歩いていた時に、頭部の影が少しぼやけているように感じられた程度のことだった。しかし、成長するにつれて次第に頭部の輪郭が不鮮明になっていくように思われた。そのことを私がはっきり自覚したのは、日食の日のことだった。まさに日食が始まろうとしていた時なのか、あるいは日食が終わろうとしていた時なのかは、今ではよく覚えてない。その日食の前後、日光写真のようにむやみに精細な影が路面に長く延びる瞬間があった。街路を歩く人々の、普段は影に映ることのない眼鏡の輪郭や、寝癖による髪のわずかな乱れまでもが、くっきりと路面に映し出されていた。太陽の光が強い時には、繊細な影の輪郭はハレーションのために白くぼけてしまうのだが、光の強さが特殊な条件の時には、繊細な線までがはっきり影として映し出される。

その日食の日に、精細に映し出された自分の影法師の頭部が、完全に欠落していることをはっきり自覚させられたのだった。私は日食を観察している子供たちや、街路を歩く人々の影法師を目で追って、自分と同じように頭部が欠けた人がいないかと必死に探し回ったが、それは空しい努力だった。子供たちも大人たちもすべて、耳の形も克明な立派な頭部を備えた影法師を伴っていた。近所の子供たちは、ガラス片にロウソクで煤を付けた遮光グラスを太陽にかざして、日食の観測に夢中だった。そうした子供たちの無邪気な姿を横目で見ながら、私は普通の人たちとはまったく違った種族であることを自覚するしかなかった。そして、例えば人々の住む社会に溶け込みながら、自分の本性を隠して生きる吸血鬼の末裔のように、圧倒的な孤独感を抱えながら生きていくことになるのだと覚悟した。だからこそ、その秘密を人に知られることを強く怖れるようになったのだ。

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