見出し画像

君子の条件

「千の点描」 <第三九話>

山小屋の扉のような、いかにも頑丈そうではあるが、四隅に不規則な隙間を残したどこか歪(いびつ)な木製の扉を開くと、いきなり女性の艶(なま)めかしい喘ぎ声が広い室内に響き渡っていた。気恥ずかしさと違和感が入り混じった複雑な気持ちで部屋を見渡すと、ここは間違いなく知人との約束の場所であるビリヤード場そのものだった。と同時に、流れているBGMが、セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンがデュエットで歌う「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」だと何の脈絡もなく思いだした。
随分場違いなBGMだと少し白けた気分になって、待合のソファーにゆったりと腰を下ろした。ソファーはしっかりしとた革製で、私の尻の重さを受け止めて大仰に軋んだ音を立てた。元々はどこか資産家の応接室にでもあったような風格を感じさせたが、腰を下ろす部分のすぐ横に大きな亀裂がある。落ち着かないBGMとともに、私にはまるで居心地の悪さを演出しているようにさえ思われた。
 
ビリヤード場には、一〇人程度の客がいたが、そこに勢い込んで二人組の若い男が入ってきた。私は偶然このビリヤードの待合で知人と会う約束をしていただけで、店の常連ではない。この二人組の客のことを知らないし、まして彼らのことを気にする理由もなかった。ところが、この二人組の客が入ってくると、先にいた二人組の客が慌しくキューを棚に片付けだした。
そしてビリヤード場の女主人に向けてぎこちないゼスチャーで、「十分に楽しませてもらった!」と、訴えながら、慌しく料金を支払って逃げるようにこの店を出ていった。これを何かの合図とするように、何組かの客が同じようにビリヤードを止めて、店の女主人に見え透いた言い訳をしながら次々に店を出ていった。残ったのは三人一組の客と、一人でキューを手にビリヤードの練習していた学生らしい若者だけだった。
私は落ち着かない心持ちでそのまま知人を待っていたが、さらに不穏な空気がビリヤード場に色濃く広がっていくようだった。その時までは、人待ちの手持無沙汰で、見るともなくこの場の様子を観察していたのだが、ここに至ってようやく、この店と二人組の客との日常的な関係が見えてくるような気がした。おそらく後から入ってきた二人組の客は、店からも他の客からも歓迎されていない客のようで、例えば、他の客にいろいろ無理難題を吹っかけて喧嘩を売る常習者のように思われた。
ビリヤード場の女主人の引き攣(つ)った顔が、そのことを如実に語っていた。いつの間にか、有線放送では、ダニエル・ビダルが歌う「夢見るシャンソン人形」が流れていて、フランス人が歌う奇妙な日本語が、その場の空気をさらに険しく変質させる不協和音のようにも感じられた。このビリヤード場は、一列四台のビリヤード台が、三列に並べられていて都合一二台が置かれていた。歓迎されざる二人組の客は、最初の獲物として三人組の客に狙いを定めているようだった。しかし、三人組の客がプレイしているビリヤード台の方に直接向かうのではなく、三人組の客と、一人で楽しんでいる学生以外には誰もいないビリヤード場の台をつぶさに見て回り、ラスの状態をチェックしているような素振りを見せていた。
しかし思った通り、最終的には三人組の客のビリヤード台のすぐ傍の台に陣取って、おもむろにローテーションのゲームを始めたのだった。このまま事態が私の予想通りに推移するとすれば、後から入ってきた二人組の客と先にいた三人組の客との間に何かのトラブルが発生する可能性は少なくなかった。しかしそうはいっても、それはあくまで私の状況観察に基づく予感である。いつ始まるかは分からないが、トラブルが発生しそうな雰囲気の中で、何事も起こって欲しくないと願いつつも、一面ではその予感が的中するであろうとする確信が次第に募る中で、最悪の瞬間を待つのは、胃の中が真っ赤に充血するほど苛立たしい時間の推移だった。

ここから先は

4,260字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?