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ある喫茶店の物語

「千の点描」 <第二八話>

京都の下鴨に不思議な喫茶店があった。下鴨本通りを北に向かい、北大路通りの少し手前を東に折れると住宅街に入る道路がある。その道路を入ってすぐなのだが、道路側から見ると何の表示もないので、間違っても通りすがりの人が立ち寄るということのない店だった。閑静な下鴨の住宅街の中にあって、その道路から小さな路地を入っていくとビリヤード店がある。といっても、このビリヤードの店にも看板やサインの類は一切なく、何の表示もない。ドアを開けると八台のビリヤード台が規則正しく並べられた予想外に大きな空間が広がっている。
この空間の手前の一画に「COF2E2」と、COFFEEを数学式に表現した文字が書かれた赤い提灯がぶら下がっている。その提灯横のドアを開けると一〇メートル四方のほぼ正方形をした空間がある。それが不思議な喫茶店そのものだった。コーヒーを飲ませる処という意味では確かに喫茶店には違いないが、むしろ強烈な個性を持ったマスターのプライベートな部屋が開放されていて、そこではコーヒーも飲めると表現した方が正確だろう。
 
喫茶店の中は、合板の壁面、油を敷いた木製の床と、輸出用の木製コンテナボックスに厚いガラス板を載せただけの簡素なテーブルが数個並んだシンプルな造りだった。照明が薄暗くく少し目が慣れないと分らないが、天井から壁面、床、テーブル椅子に至る全てのものが一つの色に統一されていた。それも、ある日は赤、またある時は青、あるいは黒といったように、マスターの意識の変化が直接店内の色彩に反映されていた。
初めて来た客は、内部の壁が真っ赤な店だと思うだろうが、その色はある日突然変化する。店内の色の統一は徹底していて、室内はいうまでもなく、部屋の外にあるトイレの壁や天井、床も同じ色に統一されている。驚いたことに、本来は白い陶器のトイレの便器までもが同じ色に塗られていた。その単純にして強烈な迫力に、ひたすら感動する客も多かったが、二度とこの店に足を踏み入れようとしない客も少なくなかった。
 
私はこの喫茶店から歩いて一〇分くらいのところに住んでいた。下鴨神社の中の湧き水を水源とする小さな川があって、その川と川沿いに建つ民家の壁の間に五〇センチ幅の道ともいえない石造りの細い通路があって、その通路を通れば喫茶店への最短距離になり、ゆっくりと歩いても約五分で行ける。私は元々この界隈に住んでいたわけではなく、この地に引っ越してきて間なしの頃だった。近所の様子を知りたくて夕食の後、家の近在を散策していた。その時に偶然、大きな塀に青いペンキを塗っている男と出遭い、そのあまりにもダイナミックなペンキの塗り方に感動して見惚れていた。それがこの店のマスターとの出遭いだった。
この時にこの民家の奥に喫茶店があることを知った。といってもこの時点では喫茶店はまだ開業していなくて、まさに開業の準備中だった。ペンキ塗りに集中していたマスターは、それをじっと凝視していた私に気付き、そこから二人の付き合いが始まった。つまり私はこの店の創業時からこの店を知っていたことになる。そうした経緯があったので、マスターとも個人的に親しくなり、この店の徹夜の模様替えには何度か立ち会った。出遭いの時もそうだったが、一晩で店内の全ての色を一変させようとする彼の鬼気迫る意志に圧倒された。
 
この店の特異性は頻繁に変わる色彩だけではなく、店内で流されている音楽にもあった。当時はロックミュージックの黎明期にあり、日本ではまだ紹介されていない最新のロックミュージックがこの店では聴けた。しかしロックミュージックへの関心もマスターにとっては音楽への関心の一部でしかない。ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンなどのコンテンポラリー・ジャズや、モーツァルト、ラフマニノフなどのクラシック音楽、一九二〇年頃から現代に至るまでのアメリカン・ポップス、しゃくりあげるような癖の強い大川栄策などのマイナーな演歌、日本民謡から童謡、宗教音楽、春歌に至るまで、ありとあらゆる音楽が彼の意識のメニューに取り揃えられていた。その理由は知らないが、なぜか彼の音楽のメニューに当時全盛期だったフォークソングはなかったように思う。とにかく音楽もまた彼の意識の変化に応じて、店の空間に不規則に供給されていた。
多分、マスター本人はまったく意識していなかったと思うが、この店はマスターが親しい友人たちへのプレゼンテーションの場として機能していたように思う。インテリアも色も、音楽も、この店を構成する全ては彼の意識そのものであり、彼のプレゼンテーションの要素の一つだった。私たちはこの店を訪れることによって、彼の意識に入り込んで彼の意識を覗くことになる。彼の控え目で優しいサービス精神は、親しい友人や知人の一人ひとりにテーマ音楽を宛がうことにも表れていた。その人が客として店を訪れるとそのテーマ音楽が流れるのだった。
勿論、客自身は知る由もないが、私にはエルトン・ジョンの「マッドマン・アクロス・ザ・ウォーター(波涛をわたる狂人)」が宛がわれていたことに気付いていた。マレーネ・ディートリッヒの「リリー・マルレーン」を与えられていた学生運動の活動家がいたし、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を宛がわれていた西陣の染色作家、ジェファーソン・エアープレインの「あなただけを」を与えられたサラリーマン風の客もいた。その組み合わせについては、簡単にイメージできる場合もあったが、全く理解不能な場合もあった。おそらくそのことに意味などはなく、ただマスターが一人ひとりの客に対して持っている意識を反映したものに違いなかった。
 
マスターは、レコードの収集に相当なエネルギーを注いでいた。海外や有名レコード店から最新輸入盤のレコードを購入するのは当然で、時には店を休んでアメリカ軍の基地がある東京の福生や、神奈川の横須賀、長崎の佐世保まで足を延ばし最新のロックミュージックや多様なレコードを買い集めていた。そうした事情もあって、この店をオープンした彼の無意識の意図とは無関係に、アメリカ直輸入の最新ロックミュージックが聞ける店という点が注目され、京都のカウンターカルチャーの拠点として、当時の先鋭的な感覚の人々を引き寄せ始めていたのだった。
六〇年代の日本には、新宿ゴールデン街の常連たちや、西口広場に集まる若者たちといったように、共通の体臭やイメージで結ばれた人たちのコミュニティが幾つかあったが、ところがこの店の客は特定のイメージがなく、一つのイメージに絞り切れない属性の多様さが本質だったように思う。確かに、当時京都にいた吟遊詩人のアレン・キンズバーグが好んだ店であったとか、アメリカから来たビートニック詩人が屯(たむろ)していたとか、ヒッピーのコミューン的な一面も無いとは言えなかった。しかしこれもこの店の一つの側面でしかなく、同時に大本山妙心寺派の高僧がいたり、伝説的な学生運動の活動家、太秦からやってくる映画俳優のニューフェース、仁義に厚い任侠の人もいた。駆け出しのロックシンガーもいれば国宝の修復に取り組んでいる宮大工もいて、大学教授やスーツを着たサラリーマンもいたが、それぞれが殆ど交わることなくこの空間に雑居していた。
 
少なくとも、下鴨の地域の文化風土に相応しい店ではなかったが、かといって地域から遊離した異物かといえば必ずしもそうでもなかった。例えばマスターの幼馴染や近所の商店の主人や店員も、違和感なく店の常連であり得たのだ。ある時、マスターの幼馴染の一人がバイオリンを携えて店に入ってきた。彼は東大の大学院に在籍している物理学者の卵で、夏休みなので京都の自宅に帰省していた。彼は水木しげるが描く「ゲゲゲの鬼太郎」のような風貌で、驚いたことに「ゲゲゲの鬼太郎」と同じようにちゃんちゃんこを羽織っていた。店の中では、レッドツェッぺリンの「天国への階段」が音量一杯に轟(とどろ)いていたが、マスターは彼の姿とバイオリンを目にすると、当たり前のようにステレオのボリュームを絞った。マスターの幼馴染は、今日はマスターの誕生日なので自身の演奏をプレゼントするためにやって来たということだった。
彼はステレオの出力が落ちたのを合図に、出番を待っていた演奏者のように部屋の中央に進み出て聴衆に軽く頭を下げた。バイオリンは容器に入っていなくて剥き出しだったので、彼は一瞬の躊躇いもなくすぐにバイオリンを弾き始めた。彼の登場の仕方がある意味ドラマチックだったので、客たちも彼の演奏に期待していたようだったが、音色も音程も相当に常軌を逸したツィゴイネルワイゼンの演奏だった。おそらくバイオリンのレッスンを受け始めて、まだ一カ月も経っていない小学生のレベルだと思った。それでも幼馴染は少しも臆することなくサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を淡々と弾き終えて、演奏し終えると客たちに深く頭を下げてから黙って店を出ていった。拍手もなくあっけにとられていた客たちだが、そうした情景もまたこの店の日常の一つだった。
そういう意味では間違いなく地域にも溶けん込んだ店とも言えた。私が実際に目撃したことだが、店から遠くない病院からいつも外出許可を貰ってこの店に通ってくる巨漢の女性がいた。彼女もやはりこの地で生まれ育った地域の住民だった。彼女は心を病んでいて、マスターにシュールな提案をしていた。彼女は自称アーティストで、自分の歯茎の血で絵を描いていた。その絵画を店内に展示して欲しいとマスターに頼み込んでいたのだ。私はすぐ傍でその一部始終を聞いていた。それから一週間ほどすると、彼女の幾つかの作品が青一色の壁に展示されていた。
作家の名前以外、どういう手法で描かれた作品であるかの説明は一切なかったので、客には普通の抽象画だと思われていたが、展示に至るまでの経緯を知っていた私には、結構な衝撃だった。それは、マスターの人間や人の生き方に対する無制限な包容力、文化的なキャパシティに対する衝撃だった。つまりこの店は、地域の人も京都人も、日本人も外国人も、コンテンポラリーも伝統も、思想も狂気も、何でも呑み込み、それらを何事も無かったように日常化してしまうほどの包容力を持った不思議な空間だった。
 
この店の常連に共通の属性は無かったが、強いて言えば“境界線上の人たち”と言えるかも知れない。境界線上にいる人たちが発散するある種のエッジ感がこの店の魅力になっていた。マスターもまた境界線上の人で、ヨーロッパの国境線のように、多様な境界線が交わる一点の上で微妙なバランスを取り、彼が揮発するフェロモンに似た危うさが、境界線上にいる人たちを誘蛾灯のように呼び寄せていた。
何時しかこの店は、ある種の人たちの間で伝説的な存在となり、国内はいうまでもなく、ヨーロッパやアメリカからも巡礼者のように訪ねてくる人が現われるようになった。この頃には、私も定職に就くことになり、次第にこの店を訪れる回数が少なくなっていたが、偶(たま)に立ち寄った時にバックパックを背負った外国人を何度も見かけた。
この店がカウンターカルチャーの殿堂として広く社会的に認知されていく一方で、この店が誕生した頃の馴染みの客たちは、やがて学生から社会人へとモラトリアムの季節を終え、余裕のない生活者として歩み始めていた。そしてこの店の黎明期の空気を呼吸していた彼らの足は、次第にこの店から遠のいていった。限られた数の初期の常連者に代わって、カウンターカルチャーの申し子たちがこの店に押し寄せ、マスターのプレゼンテーションの対象者は限りなく増えていったが、赤ん坊の手のひらのように優しすぎた彼の感性は、それでもなお一人ひとりの来訪者への個別の対応を試みようとした。
彼の意識の中に、毎日のように大勢の人たちが巡礼者の群れのように訪れ、彼らは何時しかマスターの意識を内側から占領するようになっていった。この店が彼のプレゼンテーションの場としての役割を失い、多くの訪問者の意識がマスターの意識に成り代わった時、彼は彼自身とこの店の終焉を選んだ。
 

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