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シャッターの二〇センチの違い

「千の点描」 <第五二話>

私の家の並びから、大阪の市電が走っていた大通りを挟んだ向かい側に、子供でもその名前をそらんじている大きな倉庫会社のビルがあった。その頃、私が住んでいた家の住所に、西区「江戸堀北通り」という文字が入っていたことは覚えているので、家の前の大通りがその「江戸堀北通り」だったのかも知れない。
晴れた日の昼過ぎには、中学生くらいの男の子たちが、市電の路線の上に、薬缶(やかん)に入った石灰で野球のダイヤモンドを描き、束の間の草野球を楽しんでいた。もちろん、学校の先生やお巡りさんに見つかれば激しい叱責を受けるのだが、その当時は時間帯によって、市電の運行や走っている自動車の数も少なく、まだ車道で草野球が楽しめるほど、のんびりした雰囲気があった。

大きな台風がくると、この倉庫会社のビル正面のシャッターが開くのだ。といっても、シャッターが全部上まで開かれるというのではなく、大人が無理して屈めばやっと通れるほどの高さぐらいまで開く。大阪湾周辺で台風が上陸すると、この辺り一帯は浸水する可能性が高かった。ジェーン台風のように、大阪近辺を直撃した大きな台風の多くは、紀伊水道を北上し、大阪湾、さらには大阪市街地と進むことが多い。私たちの家がある西区は大阪湾にも近いので、私たちの家も台風の直撃を受ければ、床下浸水どころではなく、床上浸水が避けられなかった。
このような状況にあったが、大きな台風が来ても、当時はまだ戦後間もなくで、社会は復興の過程にあった。当然、近くに安全に退避できる学校や施設が整った公的な施設も少なかった。したがって、倉庫会社のこのビルは、この地域での唯一の避難所になっていた。倉庫会社が自主的に善意で行っていたのか、あるいは市や区の要請を受けて行っていたのかは知らないが、周囲の住民は当然のようにこの倉庫をいざという時の避難所と認識していた。
 
大きな台風が来る予報が出ると、この倉庫会社のビル一階のシャッターが少しだけ開く。多分、この会社には台風時の対応マニュアルがあったのだと思う。ところがシャッターの降りる高さは必ずしも決まっていなかった。見るたびに、というか大きな台風が来るたびに見ることになるのだが、位置は多少上下しながら、いつも中途半端な高さに留まっていた。なぜこんな高さで留まっているかと言えば、台風には暴風が付きモノなので、シャッター部分から一気に暴風が吹き込むのを防ぐためだと思われる。そのためにシャッターは明けているが、一気に風が入り込まないように、開口部を下半分だけにしているのだろう。それは大人になってからの私の想像で、確かにいつもシャッターが歩道の下から一メートル一〇センチ~三〇センチのところに留まっていた。つまり、屈まないと通れないシャッターの高さを、子供心にも中途半端なモノに感じていて、その不可解なシャッターの開き具合を、今もなぜか視覚的に記憶している。
この周辺の人々にとって、半開き。のシャッターは馴染みのモノとなっていたが、かといって実際に家族揃ってこの倉庫に避難した記憶は無く、倉庫の内部の記憶は全く無い。しかしただ一度だけ私は、この倉庫に入ろうとしたことがあった。

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