胡同の黄昏
「千の点描」 <第八話>
北京に合弁会社を設立したのは、一九九〇年代の半ばであった。過酷で貧しい時代を必死に生き抜いた中国人への共感もあって、自分の力が多少とも中国の発展に役立てばと思ってのことだった。鄧小平による中国の開放改革路線が始まってすでにかなりの時間が経過していたが、それでも官僚や権力者の積極的な支援が無ければ、北京に合弁企業を設立するのは難しかった。無条件で北京に本社が置けるのは、フォーブス五〇〇社に含まれる会社だけだと聞いたことがある。したがってその時代、北京に事務所を構えている大抵の合弁会社は天津に本社を置き、併せて北京に北京事務所を開設して、北京にマネージメントの拠点があるように装っていた。私が設立を目論んでいた会社は、小さいながらもどうしても北京に設立する必要があったので、不本意ながらも企業設立の手続きに関しては、政府に大きな影響力を持つ有力者のサポートを受けた。
当時は日本企業が独資で中国に企業を設立することが許されず、日中合弁の形をとる必要があった。つまり日本の会社と中国の会社が合弁するもので、そのためには中国側の適当なパートナー企業を探すのが先決だった。中国との取引の実績があれば、その関連で任意の企業を選んで交渉することが可能だが、私の会社には中国に有力な伝手が無かった。そこで、日本に企業留学していた国営企業の幹部と面識があったので、その人に合弁の橋渡しを依頼した。
合弁の相手企業を探すのは、結婚における「お見合い」のようなもので、一、二度顔を合わせるだけでは、言葉は悪いがやはり「当たり外れ」がある。私が合弁しようとした相手の社長は、改革開放政策のモデル地域の一つであった山東省・青島(チンタオ)の開発で業績を挙げた有能な人物で、国際ビジネスにも通じているということだった。仲介者の言葉によると、彼は社会主義的な非効率さや、中国の風土に根ざす様々な悪弊を排除し、グローバル市場に対応できる先進のビジネスを志向しているということだった。確かに直接会ってみると、オープンで明快な話しぶり、柔和なまなざし、的確で鋭い分析力など、まさに中国ビジネスにおける格好のパートナーだと思えた。他にも何人か候補者がいたが、やはりその中では実績も性格も格別で、結果的に彼を合弁会社の社長、中国風に言えば「総経理」に選ぶことにした。
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