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松ノ木町の食卓

「千の点描」 <第一八話>

大阪は一代、東京は三代、京都は七代という言葉がある。大阪なら住んだ人の代から大阪人となり、東京なら親子、孫と三代住めば東京人と呼ばれる。ところが京都なら、七代にわたって住まないと京都人とはみなされないということのようだ。京都を外から見ている人は、落語の“京のぶぶ漬け”で語られるように、外部に閉鎖的で“しまり屋”の京都人気質を面白おかしく話題にする。実際に二〇年ほど京都に住んだ余所者の私の目から見ると、京都人の内と外を分ける意識は、確かに思った以上に頑ななものがあるように思えることがある。
 
かなり昔の話だが、私の家族の一人が京都に職を得て、兄弟の一人が京都の大学に入学したので、それを機会に大阪から京都に移り住もうということになった。移った先は左京区の下鴨松ノ木町という地域だった。移り住んでから知ったことだが、その辺りは京都でも一級の住宅地で、町内にはノーベル賞学者の家や、著名な大学教授、評論家、文筆家、芸術家などが大勢住んでいて、眼と鼻の先には、今はなき大文豪の寓居もあったらしい。住宅地としてそれほどの立地にありながら、わが家が簡単に購入できたことの背景には、やはり京都らしい事情があった。
先の居住者、つまり売主は京都の比較的裕福な商売人で、どんな事情があったのかは知らないが、急いで家を売る必要に迫られていたという。家は売らなくてはならないが、同時に家を売ることをとても恥ずかしいことだと思っていたようだ。そういう事情で、いろいろ躊躇した挙句、家を売ろうとしていることを周囲の人に覚(さと)られないように、距離の離れた大阪で売りに出したということだった。わが家としては、京都の物件をわざわざ京都まで行って探す手間もなく、大阪の周旋屋で京都のこの家に出合ったのだ。わが家が引っ越してきた時には、近隣の人は寝耳に水といった状態だったので、がさつな大阪人が来たということも重なって、近隣の人に歓迎されたという記憶はあまりない。
 
その松の木町辺りを、午後の三時頃になると自転車に乗った魚屋さんがやってくる。食道楽(くいどうらく)の大阪人からみると、京都人の食卓に上がる海の魚のバリエーションは少なくて、買う側から言えばあまり選択肢はない。錦市場や、料理屋を対象としている魚屋さんは別にして、一般家庭を対象にしている町の魚屋さんが扱う代表的な魚といえば、今では高級魚の部類に入るグジ(甘鯛)。それと、鯖街道をはるばる運ばれてくる若狭の鯖、夏場はこれに鱧(はも)が加わる程度だった。ところが自転車の魚屋さんは、京都の高級住宅街の住民を得意先としているため、その当時は京都では目にすることも珍しい魚を多く取り揃えていた。もちろんそれがこの魚屋さんの一番の自慢だった。
私の母方の祖母は紀州の漁場だった印南で生まれた人だったので、日常生活には不必要なほど魚に詳しかった。その祖母に育てられた私の母もまた、魚ことをよく知っていた。都会の人だったら敬遠してしまいそうな熱帯魚のように色鮮やかな魚でも、宇宙人のような姿をした深海魚でも、その魚に相応しい美味しい食べ方を心得ていた。
大阪から引っ越してきてから間もない頃、わが家に初めて自転車に乗った魚屋さんがやってきた。年の頃は五〇前後で、いなせとは言い難いが、それなりに愛想のよい男だった。魚屋さんは母の前で三段に重ねられた木箱を順に降ろして、中が覗けるように少しずつずらして重ね、得意げに魚を披露しながら、木箱に詰められた氷を手で均していた。その時点では母に、この辺りについての特別の先入観はなく、ごく自然に三つの箱の中を覗いて、わが家の夕飯のおかずに相応しい魚を見つけようとした。母はそれぞれの箱の中を一つ一つ覗いて、その中から鮮度が良くて美味しそうな太刀魚を見付けて魚屋に値段を尋ねた。ところが、母が指差した魚を見るなり、魚屋さんの顔色が一変した。
 
魚屋さんは太刀魚を大切そうに持ちあげて、これは親子二代の京大教授で知られた大先生のお宅に持っていく魚だと、咎(とが)めるように母を睨みつけた。これには母も驚いたが、先約があるのなら仕方がないと、母は再び木箱の中を覗いて、太刀魚に換えて魬(はまち)を指差した。すると、この魚はノーベル賞学者の家に持っていく魚だという。次に鰈(かれい)はどうかと聞くと、これもやはりどこかのご大家に持って行く魚だというのだった。何度かこのようなやり取りして母に分かったことは、魚屋さんが木箱に並べている魚の行き先は予め決まっていて、どうやら客が選択する自由はほとんど認められていないということだった。
 
勝気な母なので、普段なら魚屋さんを即座に追い出すところだが、引っ越してきて早々に喧嘩するのも面倒だと思ったのか、それでは何を買えばよいのかと下手に出て魚屋にお伺いを立てることにした。すると魚屋さんは、わが家がどこから引っ越してきたのかと奇妙なことを尋ねるので、母が大阪から来たのだと答えると、次は主人の職業は何かと聞いてくる。魚屋さんは次々に尋問のように問いを繰り返すのだが、客を値踏みしている魂胆が見え見えなので、母はまともに答えず適当にあしらっていた。すると、魚屋さんもこのままでは埒が明かないと思ったのか、上目遣いに母を見て、鯵(あじ)を買ったらどうかと勧めてくる。
鯵は好きだし特別の恨みはなかったが、母はわが家の夕食の食材を勝手に決めつけられたことが不快この上なく、いっそ魚屋さんを追い返そうと思ったのだそうだ。しかし現実的に考えれば、夕食の時間も迫っていて公設市場が遠いこともあって、不本意ながらも魚屋さんが勧める鯵を買うことにした。母は直感に優れているので、魚屋さんとのこの短いやり取りを通して、京都のこの地域のコミュニティの在り方を何となくと理解したようだった。魚屋さんは町内の著名な人の家にそれぞれに等級を付けて、その等級にふさわしい魚を選んで配給しているのだろうと母は言う。
例えばノーベル賞学者の家が鯛とすると、親子二代の京大教授の家は甘鯛といったように、魚屋はその日仕入れた魚に、高級度、鮮度、また“旬のもの”などの季節要因を総合的に判断してランク付けし、町内の住民の家格に合わせて、それぞれの魚の行き先を決めているのだろうと推測したのだった。
 
こうした京都的な町内ヒエラルキーの在り方とその運用は、ただ魚屋さんだけのシステムではなくて万事にわたって徹底していた。例えば共同募金を集める際にもこの方式が応用される。町内で最高の家格とされるノーベル賞学者の家が赤い羽根の募金に千円寄付すると、誰が決めるのかは知らないが、その金額を募金の最高額として、それぞれの家格に応じた金額が設定される。町内会で募金を集める際には、予め裏面にその家に相応しい金額が記入された封筒が配られる。
赤い羽根募金の場合、わが家に振り当てられた金額は百円だった。余所者でもあり、おそらく町内で一番家格が低い家とされていたのだろう。そして家格に応じて、二百円、三百円と少しずつ金額が多くなり、おそらく親子二代の京大教授の家などは八百円辺りに金額が設定されているのだろう。もしアドバイスに従わずに千円札を封筒に入れて出せば、九百円のお釣りとともに百円の領収書の入った封筒が戻ってくるだろうと掛かりつけの歯医者から聞かされた。それでもわが家が、一年、二年と住んでいる内に、少しずつ家格が上がっていく仕組みになっている。三年目の赤い羽根募金の場合には、封筒の裏に書かれた金額は二百円となっていた。母は封筒の裏に架かれた金額を無視して封筒に五百円入れたが、口の悪さで次第に町内での存在感を強めていた母だったので、出過ぎた募金額が突っ返されてくることはなかった。
 
町内の食卓を支えている自転車の魚屋さんだが、移ってきて三年経ったということもあるのだろうが、わが家は八人家族という大所帯で、毎日購入する魚の量も多いので、余所者とはいえわが家の家格の上昇スピードは速かった。最近では鰆や鮃などがわが家の家格に相応しい魚のレベルとされていた。ある日のこと、これまではなかったことだが、魚屋さんの方からこの魚をぜひ買ってくれと母に頼み込んできたことがあった。母がどうした風の吹きまわしかと思って木箱の中を覗くと、そこには大きな鮟鱇(あんこう)がだらしなく横たわっていた。鮟鱇は日々の食事の食材としては高価な上に調理が面倒なので、母は一瞬躊躇したが、珍しい食材に目がなかったので思い切って買うことにした。そんな事情でその夜は、家族揃って少し季節外れの鮟鱇鍋を囲むことになった。魚屋さんは鮟鱇を仕入れてノーベル賞学者か、親子二代の京大教授の家に持っていくつもりだったのが、先方に断られて困ったのだろうと、母は鮟鱇鍋が今夜の食卓にある理由を家族に解説していた。
 
その出来事があった頃から魚屋さんの母に対する態度に目覚ましい変化が見られるようになってきた。魚屋さんが母に親しく話しかけてくるようになって、持参してきた魚を全部母に披露して、自由に魚を選ばせてくれるようになったということだった。一旦親しくなるとにわかに口が軽くなり、魚屋はこれまで鬱積していた町内の住民に対する不満を吐き出すようになってきた。母が魚屋さんからいろいろ聞かされて分かったことだが、この魚屋は何十年にわたって松の木町の台所を仕切ってきたと自負していたという。確かにこれまでは魚屋さんの差配に従わない家などなかったのだが、先の鮟鱇の件のように、最近では魚を食べない家庭が増えてきて、しかも魚屋さんが予め決めていた魚の購入を断る家が増えてきたというのだ。
それも当然の話で、最近では台所を預かる主婦の世代も変わってきて、魚より牛や豚を食べる家が多くなってきているし、まして魚屋さんに夕食のメニューを決められるのを喜ばないのも仕方がないことだった。ところが魚屋の怒りはそのことだけではなかったようだ。
 
かつて魚屋さんは、松の木町の高名な先生方の家に何十年と魚を配給しているだけではなく、いずれの家にも出入り自由で、子供さんの塾の手配、町内の争いごとの仲裁、困りごとの相談など、何のことはない、松の木町の“一心太助”のように大いに活躍していたのだった。町を魚を積んで自転車で走ると、子供から老人まで、誰もが親しげに言葉を掛けてくる。それが魚屋さんの何十年に渡る生き甲斐だったのだ。その立場を次第に失っていくのが悔しくて、母に町内の住民に対する不満をぶつけていたようだ。
母の耳の傍にそっと手を立て、これだけは誰にも言ったことがないといったような仕草で、自分の家は慶長年間に京都へ移ってきて、すでに六代になるという。あと一代で晴れて京都人になれると言いたいのかと母は思ったらしいが、そうではなかった。「実は私のところも、五代前まで大阪人やったんですわ!」と、小さな声で呟いたかと思うと、「しかし息子は、いつまで経っても京都は辛気臭くて性に合わんと、昨年大阪に引っ越しましてな!」と、告白した。京都人になろうと思いながら、六代にわたって余所者であり続けた魚屋さんの愚痴を聞くと、京都の排他性も相当なものだと母は奇妙に納得したのだった。

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