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紫禁城の魔法陣
「千の点描」 <第三二話>
凄まじい砂ぼこりを掻き立てながらジープが熱帯雨林を駆け抜けた。そこにはテニスコートのアンツーカーを思わせる赤土が顕わになった広大な平地が広がっていた。熱帯雨林を車で走っても砂ぼこりは立たない。しかし熱帯雨林を切り裂くようにをダンプカーが一日何十台と走ると、その轍(わだち)の跡が泥沼のようになり、雨が止んでその泥濘(ぬかるみ)が灼熱の太陽に曝されて乾燥すると、車が走るたびに荒野のように砂ぼこりが立つ。熱帯雨林を出て赤土の平地をさらにそのまま一キロほど進むと、まず大きな建造物の尖塔状の部分が見えてきて、しばらく走ると紫禁城と見紛うような二つの建物の全体像が見えてくる。
熱帯雨林と巨大建造物といえば、寺院と巨大な樹木が絶妙に絡み合って一体となったカンボジアのアンコール・ワット寺院を思い浮かべるが、ここでは少し様子が違っていた。建造物と熱帯雨林の間には、幅二〇〇メートルはあろうかと思われる赤土地帯が非武装地帯のように横たわっていた。つまり熱帯雨林と建造物は隔離されているのだ。ジープから降りると、この建造物の野放図な大きさが実感できる。しばらく建造物の周囲を歩いてみると、この建造物の建てられた意図が、はっきりと分かってくる。全体構造は、中国の文化と歴史のテーマパークらしく、その中核施設となるのが紫禁城に似た巨大な建造物で、大きなショッピングセンターとして機能するようだ。その周辺には、遊園地、動物園とそれぞれに巨大な施設が配置され、さらに、地域の一画には壮大なリゾートホテルの建設が予定されている。
私が、紫禁城に似た建造物の大きさに感嘆していると、北京から同行していた中国人の通訳の女性は、「紫禁城を真似していますが、本物の紫禁城はこれよりずっとずっと大きいです。この建物は本物の十分の一にもなりません!」と、私を非難するような表情で言葉を返してきた。きっとこの人は北京の人で、その言葉は北京人の王朝(みやこ)意識に違いないと思ったが、実はそうではなかった。通訳の馬さんは、四川省の外国語大学で日本語を専攻した人だった。きっと民族主義者として、この馬鹿げたフェイクの建造物に否定的な反応を見せたのだろう。
それはそうだとしても、ほとんど自然のままだった熱帯雨林を切り拓き、紫禁城を模したこれほど巨大な建造物を建設しようとする開発業者の旺盛なビジネス意欲には驚かされた。意欲には感心するが、海南省の省都、海口からこのテーマパークの開発現場に辿り着くまでの数時間、私たちは小さな集落を除いてほとんど人を見かけることもなかった。交通アクセスのまったくない立地で、これほど大きなレジャー施設に来場者が集まるのかと私は疑問に思った。しかし、テーマパークが完成すれば、周辺の人が勝手に道路を作り、やがて自然と交通アクセスも整備されるはずだと開発責任者は胸を張って堂々と宣言した。交通アクセスに関しては多分に他力本願的な計画に違いないが、開発責任者の溢れる自信に、中国ではいかにもあり得そうな気がしてくるのが不思議だった。
海南省は、海南島全体を行政地域とする中国の一つの省で、中国の最南部に位置している。したがって海南島の南端には中国の果ての海岸という意味を持つ「天涯海岸」と呼ばれている観光名所がある。また島の南寄りの内陸部には、五指山という名前の山がある。「西遊記」には、その主人公である孫悟空が、お釈迦さまの手の中から飛び出して、天地の果てを目指して飛び続ける場面がある。孫悟空はやがて天地の果てに到達し、その証に到達点にあった五本の柱に文字を書いたという行(くだり)はよく知られている。天地の果てにあったと思った五本の柱は、実はお釈迦様の五本の指で、どんなにあがいてもお釈迦様の掌(てのひら)を出ることもできなかったという逸話となっている。その逸話に出てくる天地の果てが「天涯海岸」で、五本の指が「五指山」であるという。
「西遊記」の作家が、海南島の「天涯海岸」と「五指山」をモチーフにしたということなのだ。海南島をガイドしてくれた人の話なので、どの程度本当なのか分からないが、何となく面白く説得力のある説なので、私は気に入って信じることにした。とにかく海南島は、イメージの面でも実質的にも中国人が考える中国世界の最果ての地で、宋代の蘇東坡が流されるなど古来より流刑の地としても知られていた。そのため、海南島の人は中国文化への憧れが人一倍強く、熱帯雨林を拓いてまで紫禁城に似たものを作りたかったのかと私なりの解釈をしていたが、まったくそうではなかった。開発者は生粋の北京人で、このテーマパークは中国本土からの観光客を当て込んでのものだった。
私たちが海南島に来たのは、海南島のエコエミッションの観光開発を支援するための調査と助言が目的だった。ある国際的な財団から依頼を受けて調査団が組織され、私はそのメンバーの一員として視察のためにこの島を訪れたのだ。中央政府としては建前上、エコツーリズムという考え方に賛同していて私たち調査団の海南島訪問が実現したのだが、現地の地方政府は必ずしもその考え方に同意していたわけではない。地方政府としてはまず経済第一で、エコツーリズム以前に、観光資源のインフラ開発と観光客の誘致が目先の課題だった。
地方政府も表向きは私たちの視察を歓迎してくれたが、私たちが海南島を訪問したのは、無計画な乱開発がピークに達していた頃だった。改革開放の波に乗った市場経済がこの島にも浸透し、お金の魔力が島中の人を虜(とりこ)にしていた。海南島は世界を代表するリゾート地であるハワイと同緯度に位置している。そこで、中国各地はもとより、海一つ隔てたベトナムやシンガポールからも一山当て込んだ開発業者が雲霞(うんか)のごとく押し寄せていた。「中国のハワイ」を目指した不動産と風俗産業のまさにゴールドラッシュの時代だった。
国際的な観光トレンドは環境保護に向かっていたので、エコツーリズムという私たちの提案に対して、省政府も開発業者も一応賛同の姿勢を表していた。とはいえ、理性がお金に勝てるはずがないとでもいうように、調査団の具体的な提言にはほとんど反応がなかった。余計なお節介は聞きたくないというのが本音だったのだと思う。唯一私たちの具体的な提言に反応したのは、島内の交通システムの整備のことを話し合った時だった。海南島には、かつて日本軍が占領していた時代に石炭を輸送するための短い距離間の鉄道が存在していたが、今でも島内を自在に移動できる交通システムがなかった。そのため、島内交通システムの整備に関しては省政府も大きな関心を持っていた。しかし、鉄道システムの整備には莫大な資金が必要なことから、まず中国本土、つまりは広東省と海南省を結ぶ交通ネットワークの整備が優先課題であり、この件に関してはかなり建設的な対話が交わされた。
当時の海南島では、飛行機と連絡船が中国本土と海南島を結んでいた。飛行機は費用の面でまだ庶民には手の出ない移動手段であり、連絡船はスピードと輸送量の点で非効率だった。そこで海南島の産業界では、日本の青函連絡船のように、鉄道と船の連動による輸送量の増大を期待していた。視察団と現地の関係者との対話の中で、青函海底トンネル開通の話と併せて青函連絡船が話題になった。すでに日本の青函連絡船は青函海底トンネルの完成によって使命を終えていたので、その再活用に話が及んだ。私自身は青函連絡船がその後どうなったかまったく知らなかったが、私たちの視察団のメンバーの中に交通システムを研究している大学教授がいた。幸いにもこの教授が役目を終えた青函連絡船の再活用の検討に関わっていたということから話は急展開した。
というのも現地の関係者が、連絡船として用済みとなった青函連絡船を海南島が譲り受けることに大きな関心を示したのだ。視察団は急いで教授に日本の関連部署に連絡を取ってもらって、譲渡の実現に向かって動こうとした。当時は、今のようにスマホで簡単に日本と通信できる状況ではなかったので、日本からこの件について返事を受け取るのにかなりの時間を必要とした。その間私たち一行も海南鶏の名産地(宋慶齢、宋美齢、宋愛齢の宋家三姉妹の故郷)を訪ねたり、南の観光拠点となる三亜を巡ったりしていた。それでも困難な通信状況の中を移動の間も日本と連絡を取り合って、何とか相手方の希望に沿えるように努力した。しかし四日も費やして日本側から受け取った結果は、青函連絡船の譲渡先はすでに決まっているということだった。
熱帯雨林の紫禁城を訪問したのも、やはりエコツーリズムの提言のためだったが、熱帯雨林の紫禁城はすでに基礎工事を終えていた。今は外装、内装工事の段階で、エコツーリズムを提言するには遅きに失したというのが現実だった。建設現場では出稼ぎの多数の建築作業員たちが、建設途中の建物内に起居して作業に当たっていた。見た目にはほぼ完成している熱帯雨林の紫禁城は、彼らの工事現場であり、同時に彼ら作業員の日々の生活の場でもあった。
紫禁城の内部に入ると、想像を絶する高温多湿な環境で、ただそこにいるだけで溢れるような汗が流れてきた。ガラスの嵌(は)められてない窓には彼らのシャツや下着などの洗濯物がところ狭しと干してあって、床のそこかしこに鍋や薬缶、プラスチックの物入れ、カップ麺の空の容器などが雑然と置かれていた。建物の壮麗な姿と、熱帯の苛酷な環境で建築作業をする彼らとの対比が、海南島の紫禁城という開発プロジェクトの本質を浮彫りにしていた。
私たち一行は海南島の紫禁城の、日本の城でいうところの本の丸部分に登り、高い空の下に広がる四方の熱帯雨林を眺めていた。するとにわかに空が曇りはじめ、これはまずいと心配する暇もなく熱帯特有のスコールが慌ただしく大地を叩き始めた。そして、四方一切の景色をグレーの帳で遮蔽するような激しい雨が降り始めた。しばらく呆然と雨を眺めていたが、この雨を自然の驚異が織りなすドラマの序章とするかのように、一瞬目の前が真っ白に輝くと、わずか三、四秒ほど経ってから世の中の全ての音を制するような雷鳴が轟(とどろ)いた。
空気中の音速は確か一秒間に約三四〇メートルなので、落雷があったのはここから一キロか、一・三キロほど離れた場所だ。雷がここまで来るにはまだ少し時間があるなと思ったが、その時すでに私たちは落雷域の真ん中に入ってしまっていたようだった。たちまちいくつもの雷光が自由自在に、幾何学模様を描きながら天と地を結び、雷鳴は近くに、あるいは遠くに、ただ人間を怯えさせることが目的であるかのように、私たちを閃光と轟音で弄(なぶ)り続けるのだった。
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