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ペニシリン軟膏

「千の点描」 <第一二話>

コンクリートの塀に向かって、そのまま激突するように真っ正面から一気に走り込み、壁に激突する直前に足を塀の壁面に乗せて垂直に駆け上がる。すると、助走で得た前方への運動エネルギーが上方に向かうので、易々と高い塀の縁に手を掛けることができた。そのまま懸垂するように、塀の縁をつかんだ手で体をグイと引き寄せて、片方の足を塀の上に絡ませると簡単に塀を乗り越えることができた。短距離のダッシュ力には一〇〇%の自信があり、助走に必要とするバックヤードはせいぜい一〇メートルの距離もあれば十分だった。もちろん、私が塀を越えているところを先生に見られると厄介なことになるので、先生の視線が届きにくいストーブ用の石炭置き場横の小さなスペースが、いつもの私の学校からの脱出ルートだった。
 
意識的に隠していたわけでもなかったが、この“脱出技”は親友にも明かしたことのない私の密かな特技だった。話を聞くだけだと、誰にでも出来そうに思えるが、壁を垂直に駆け上がるには、タイミングを取るのにかなりデリケートなコツがあり、思いの外高度なスキルが要求された。それだけに、少なくとも私の学校では私にしか出来ない芸当だと絶対的な自信を持っていた。私のクラスルームである四年三組の教室は、校門から遠く離れていて、またその校門も、私の通学のルートからすれば不都合な位置にあった。つまり、正門から通学ルートに戻るためには、運動場を含む学校の広い敷地の周辺を半周ほど歩かなければならないのだ。
そんなわけで、急いで帰宅したい時にはしばしば小学校の塀を駆け上がり、家への最短距離を選ぶ必要があった。といっても、急いで帰宅したい時というのは、大抵一週間に一度放送される私の好きなラジオの連続番組を聴く時だった。当時すでにテレビ放送は始まっていたが、一般家庭にはまだテレビ受像機はほとんど普及していなくて、どうしても見たい時には、親に連れられて一軒おいて隣の喫茶店で見るほかない。しかし現実的にはそんな機会は滅多になくて、同居していた祖母がNHKの紅白歌合戦を見たがったので、一年に一度大晦日の日に家族揃って喫茶店で見るだけだった。
 
私はコメディアンのトニー谷が声の出演をしていたラジオ連続ドラマが好きで、その日もその放送を聞くためにいつもの脱出ルートを利用することにした。これまで失敗したこともなかったので、さほど慎重になることもなく、勢いよく塀を駆け上がろうとしたが、昨夜降った大雨で土がぬかるんでいた。ぬかるんだ土に助走の足を取られて一瞬身体のバランスを崩し、とっさに身体をひねって、体の側面で塀に衝突して衝撃を吸収させた。顔や頭の怪我を避けるためだったが、左足が衝突のポイントに位置していたので、半ズボンの裾から一〇センチほど下にある左足の膝小僧を思いっきりコンクリートの塀に摺りつけることになってしまった。少々の打撲や擦り傷なら日常茶飯事だが、衝突の時にかなりの力でざらざらとしたコンクリートの粗い表面を擦ったので、膝小僧の表皮が大きく剥がれるほどの深手を負ってしまった。

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