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彷徨える淀川

「千の点描」 <第二二話>

“京阪電車”は、京都と大阪を結んで走る私鉄電車で、阪急電車と並んで関西人には馴染みが深い。京都と大阪の路線を軸に、京都から滋賀県の大津、また京都の比叡山、八瀬大原、宇治などにも延伸しているので、大阪から京都方面への移動には欠かせない路線といっていい。当時私は南大阪方面に住んでいたので、私が利用するのはせいぜい大阪、京都間だったが、テレビを見ながら移動できる電車としての印象が深かった。輸送機関としてはその通りなのだが、京阪電車の大阪、京都間の路線沿を地理的に見れば、淀川の川沿いに京都と大阪間をつないで走るラインであり、日本の都と経済を仕切る大阪を結んだ川と街道に沿っているので、歴史的にも趣がある。そういう訳で、淀川と京阪電車は切っても切れない関係にあって、この沿線上のほとんどの駅では、駅を降りて京都側に向かって左へ九〇度の角度に進めば嫌が応にも淀川に行き当ることになる。
 
なぜ酔狂に魚を釣りくに行くことになったのか、その経緯についてはすっかり忘れてしまったが、とにかく親しい友人と釣りに行くという話になって、近場の釣りなら淀川の鯉が一番だということになったのだろう。私は釣りには全く詳しくなかったので、すべてはその友人の指図通りに計画が進められた。鯉釣りの餌には茹(ゆ)でたサツマイモが最適だというのも、この友人のアドバイスだった。朝早く起きてサツマイモを茹でて、随分早い時間に家を出た。
出かける前の予定では、友人とのJR天王寺駅での待ち合わせが午前七時、釣り場所の京阪電車の最寄りの駅に着くのが午前の八時、淀川の釣り場所につくのが午前九時となっていた。この予定で行くと、ゆっくり鯉釣りを楽しんでも、午後の三時には十分帰宅できるはずだった。京阪電車の最寄りの駅に着くまではすべて予定通りだった。私自身はこの駅に降り立つのは初めてで、どんな町かと多少は期待したが、万事に閑散とした駅前なので驚いた。どこの私鉄沿線でも大きさはさまざまだが駅前には商店街があるはずなのに、ここには一般的なイメージのような駅前商店街はない。もちろん多少の商店はあるのだが、煙草屋とパン屋、布団屋など数えるほどで、駅前を一歩離れると、いきなり閑静な住宅地のただ中に放り出されたような感じだった。

友人の言うように、この住宅地のすぐ近くで鯉が釣れるとはとても思えなかった。私の不安な表情を理解した友人は、ここはなるほど住宅地だが、せいぜい駅から三、四〇分も歩けば間違いなく淀川に着けると確信をもって宣言してくれた。友人の話によれば、彼は何度もこの釣り場で鯉を釣っていて、この辺りも通いなれた道のようなものだということだった。それならばと二人で歩き始めたが、四〇分歩いても住宅地は続いていた。ところが友人は少しも不安がる様子がなく、スタスタと先を急いで歩いていく。
時間は十分にあるので、少しくらい淀川に着くのが遅れても何の支障もないのだが、私たちは魚釣りの道具をぶらさげて、住宅地にはいささか不釣り合いな格好なので、歩きながらもずっと居心地の悪さを感じていた。地元の住民からすれば、日々の生活の場に闖入した場違いな存在として見えているように思ったのだ。
 
駅を出てからすでに一時間は経つが、まだ淀川には出合わない。焦りもあって心持ち足早に歩いているので、一時間なのだが少なくとも五キロくらいは進んでいるはずだった。その頃になって、友人も少し心配になったのか、最近はこの辺りは住宅開発が進んで、町並みが変わったのかも知れないと初めて不安を口にした。とにかく、コンビニなどない時代だったので町にこれといった目印がなくて、友人にもどこまで目標まで近づいているのか皆目見当がつかない様子のようにみえた。この辺りまでは、友人に全権を委ねる形でやってきたのだったが、四〇分で着くところが一時間経っても着かないので、これは一度友人と相談する必要があるかと思ったのだ。というのは、人間だれしも記憶に絶対ということもないし、彼もここ一年ほどはこの釣り場に来ていないということだったので、通りがかりの人に少し聞いてみてもいいかと思ったのだ。
しかしそのことを友人に話してみると、彼は私を信じていないのかといった剣幕で、私のその提案を一蹴した。二人の間に一瞬気まずい空気が生まれたが、友人もこれは拙いと思い直したのか、私に一つの代案を示した。彼とすれば、知り尽くした道なので、私が間違うはずはない。間違っていたとしたら、住宅開発が進んで道の方が変化したのだと言いたかったのだろう。友人は、駅前から歩いてきた道筋を九〇度曲がってみようと提案してきた。曲がればきっと以前の道に出くわすだろうということだった。私としても不快な気持ちで同行するのは嫌だったので、友人の提案を素直に受け入れることにした。

道を曲がってやがて三〇分、一時間と歩いたが、やはり淀川には行き着けない。友人はナビゲーターとしての面子が丸つぶれなので、何とか面子を繕(つくろ)おうと思ったのか、一旦道端で立ち止った。そこで友人は、大平原で水の在りかを探るアメリカ原住民のように、四ツ辻に屈み込んでしきりに地形を読んでいるような仕草をした。そして、四ツ辻なら背景の山並みが見通せるので、それを参考に川の流れに見当を付ければ、自ずと目的地に着けるはずだと言い始めた。私は友人の言い分を信じていたわけではないが、すでに意固地になっているようだったので、彼の提案にしたがって、幾度か進行方向を変えてみたが、やはりいつまでたっても住宅地を抜け出ることができなかった。
 今ならどこの駅前にも簡単なエリアマップなどがあって道に迷うことも少ないが、その当時はそんな気の利いたものがあるはずもなかった。地図が分からなかったら、人に聞くしかないのだが、通いなれた道だと言い張っていた友人は、人に聞くのを潔しとせず意地になって独力で淀川に辿り着こうと必死になっていた。そうこうしている内に瞬く間に昼になり、朝が早かったこともあって私は急激に空腹を感じ始めていた。のどかな魚釣りを思い描いて、わざわざ母に頼んで行楽用の弁当を作ってもらっていたので、すぐにでも弁当を食べたいと思ったが、友人はさらに意固地になって、次はどこへ向かおうかとしきりに思案していた。

ところが丁度その時、にわかに大きな雨粒がぽたぽたと落ちてきた。これはチャンスと思い、雨を理由に一旦休憩することを友人に提案することにした。友人が頑なな態度だと面倒だと思っていたが、友人もお腹が減っていたらしく、意外にも素直に昼食を食べることに同意した。しかしこの辺りは普通の住宅地なので、まさか道端で食べるわけにはいかない。しかも先ほどまでは公園で食べることを考えていたが、あいにく雨が降ってきたので、雨に濡れない場所を探す必要が出てきた。住宅地を歩いてきたが、弁当を食べるのに都合のよい場所をまったく見かけなかったので、どうしたものかと躊躇(ちゅうちょ)していたが、歩いていた道の二、三〇メートルほど先を見ると、青いシートを被せた建築中の建物が見えた。この場所なら雨露がしのげると思って近づいてみると、幸運なことに無人の建築現場だった。今日は雨だと見越して工務店の人も作業を休んでいるようだった。
足許にはまだ木の香りも新鮮な鉋屑(かんなくず)もそのまま放置されていたが、屋根の部分はほとんど完成していて、雨宿りに絶好の場所だった。すぐに建設資材の上にドカッと座って、待ちきれない思いで弁当を開いて食べ始めたが、その日が土曜日だったこともあって、これまで人通りのほとんどなかった道路を、学校帰りの子供たちや、買い物に出かける主婦たちが大勢歩き始めたのだった。当たり前のことだが、この住宅地に住む通行人たちは、傘を傾けて弁当を食べている私たちの姿に不審な一瞥をくれる。住宅地の中の建築現場に座り込んで、二人で弁当を食べている私たちの姿は、恐ろしく間が抜けていて、もはや体裁を繕う余地はなかった。雨は次第に激しくなり、現場を雨から防ぐために覆われていたブルーのシートを大粒の雨が叩き、私たちは言葉少なにその荒々しい音を聞き続けていた。
 
激しい雨は一時間近く降り続いたが、あまりに惨めな成り行きだったので二人とも半ば意地になり、雨が小降りになるのを待ってまた川を探して歩き出した。しかしどれほど道を歩いても、どれだけ道を曲がっても、ついに日が暮れるまでに大きな川に辿りつくことはなかった。まさに、キツネやタヌキに騙されたといった感じの惨めな一日だった。その後、偶然に郵便配達の人に遭ったので、最寄りの駅までの道を聞き、無事戻ることがことができた。帰路においても、こういうこともあると私は別段腹も立たなかったが、面子が潰れたと思っている友人は、天王寺の駅に着くまでほとんど口も開かなかった。別れる前に天王寺駅のステーションデパートの喫茶店に入って、二人で苦いコーヒーをすすっていると、彼は将棋の回想戦のように、指で歩いた道を思い描いているようだった。
頭の中に地図を描いて、その空想の地図の上を、指で真っ直ぐの直線を描いたり、九十度の角度で曲げてみたりと、知らない人が見たら本当に地図上をなぞっているような仕草だった。私は本当のことが分かっているので、仕草がリアルであるほど、おかしさが込み上げてくるのだが、彼の面子を考えると、黙って笑いを込み殺すしかできなかった。友人があまりに不機嫌で深刻な顔をしていたので、意味もなく慰めるつもりで、「クリム盆地のロプノール湖は移動するというから、淀川も川筋が変わったのかも知れないな!」と呟(つぶや)くと、友人は即座に反応した。彼は今日の出来事がとても信じられなくて、川筋が変わったのではないかと考えていたというのだ。せいぜい一年で川筋が変わることなど有り得ないとは思ったが、友人の気分がよくなったならそれでいいと、反論はしなかった。
 
私は帰宅してから地図を取り出して、自分なりの納得のために、今日は何が起こったのか調べてみることにした。あいにく学校で高校生が使っているような地図帳しかなかったので、詳しいところまでは分からなかったが、私の推測でいうと、私たちはガラスのケースに閉じ込められたハツカネズミが、そのケースの中を隈なく歩きまわるように、精々二キロ四方の範囲の中を隈なく歩き回っていたのだと思う。私たちにはガラスの壁こそなかったが、それでも決して淀川に行き当たらないように、二キロ四方を少しも出ることはなかった。そして皮肉にも、一日中歩き回った道筋のすぐ横には、いつも淀川が堂々と流れていたにもかかわらず、私たちはついに淀川に交わることがなかった。つまり彷徨(さまよ)っているのは淀川ではなくて、私たち自身だったのだ。
私はその後人生において、取り巻く条件は様々だったが、同じような経験を何度も経験した。行先のない迷いや人との衝突があると、その度に私は、彷徨っているのは相手なのか、あるいは自分なのかをいつも自分に問い質す。真実はいつも変わらなく存在しているが、人間は間違いなく彷徨い続けるのだ。
 

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