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「一国一城のおやじ」

「千の点描」 <第三一話>

長春の空港にタラップで降り立った時には空は快晴で、厳冬の吉林省も思ったほど寒くはないと多寡(たか)を括ったその瞬間、空港を這うように一陣の風が駆け寄ってきて頬にピシッと痛みが走った。おそらくマイナス二〇度くらいの温度だったように記憶している。
 
北京で偶然にも、中国映画界の黒澤明と呼ばれていた年配の映画監督と知り合う機会があった。彼は国策的なプロパガンダ映画の大作を多く手掛けてきた監督だった。国も違えば年齢も離れていて、これまで生きてきた世界が異なるので、なんら共通点はないように思っていた。しかし、通訳を交え中国の歴史を語り合う内に、深夜まで酒を酌み交わすまでに意気投合し、監督の肝いりで、その翌日にはさっそく吉林省の省都、長春を訪問することになった。なぜそれほど中国の黒沢監督と気が合ったのか正確には覚えていないが、私が比較的中国史に詳しかったので、そのことが一つの要因であったのは確かだ。
監督は全人代の代表でもあった。日本でいえば衆議院議員という立場なのだが、日本とは比較にならないくらいの政治力があって、深夜なのに電話一つで、翌日の長春までの私の飛行機の便を確保してくれた。北京の空港で監督と共に長春行きの飛行機に乗ると、多くの乗客が監督に握手を求めていたので、彼が中国映画界の黒澤明と呼ばれているのは事実のようだった。
 
長春には、満州帝国時代、日本の関東軍の宣撫工作の一環として、満州鉄道の傘下に満州映画協会、俗に満映と呼ばれる映画撮影所が設立された歴史がある。やがて日本が戦争に負け、中華人民共和国が建国されてから、元満映の撮影所は中国の映画製作所となった。そして、製作技術や一部日本人スタッフを受け継いで、やがて中国の映画製作の拠点へと成長していった。人民中国の革命映画の多くがこの撮影所で製作されたと聞いたが、私が長春を訪れたのは、一九九〇年代の中国の改革開放政策がようやく軌道に乗り始めた頃だった。中国映画界にも「黄色い大地」で世界に知られた陳凱歌(ちぇんかいこう)監督や「紅いコーリャン」の張芸謀(ちゃんいーもう)など第五世代の監督が次々に登場するなど、大きな変革期が訪れていて、この映画製作所でも今後の進むべき道を模索していた。

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