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初めての東北出張
「千の点描」 <第三六話>
京都の老舗の呉服屋は、冬になると東北一円を巡回して着物の展示即売会を開いていた。京の呉服屋の展示即売会となるとそれぞれの開催地でも結構な人気を呼び、恒例の大きなイベントとして各地にしっかり定着していた。また店によっては、年間の売り上げの相当部分を占めている場合もあったと聞く。訪問地はいつも同じということではなくて、青森、秋田、いわき、山形、仙台、盛岡などの大きな都市は毎年、もう少し小さな都市は二、三年に一度、さらに小さな都市でも五年に一度くらいは開催された。湯沢、花巻、八戸や五所川原などでも何度か開催されていた。多くは地元の呉服商の組合などと提携して行われることが多く、時には地域の百貨店と共催する場合もあった。
巡回の全行程は短くても二週間から、長い時には三、四週間近くに及び、随行している社員も一週間ごとに交代する。この年の予定は二週間で、すでに前半のスケジュールも無事にこなして、これまでの習慣に従って社員の交代と中締めの慰労会を兼ねて、随行スタッフ全員が山形の温泉旅館に集結することになっていた。巡回の展示即売会には、役員一名が責任者となって、それに若手の社員が数人随行に当たる。ところがこの冬京都では性質(たち)の悪いインフルエンザが流行っていて、若手の随行スタッフが十分に確保できなくなった。そこで仕方なく中年の社員が応援に駆けつけることになった。
権藤は急な出張の要請にもかかわらず、東北に行くことをとても喜んだ。彼が若い頃には巡回の展示即売会はまだ行われていなくて、権藤はこれまで東北地方に行ったことがなかった。いつも若い社員から、芸者が居並ぶ温泉旅館での盛大な慰労会の様子を聞かされていたので彼の心は躍った。ところが実際の宴会は、一人や二人芸者もいるにはいたがごく月並みなものだった。若い社員が古参の社員に宴会の盛大さを誇張して話すのは、出張には古参社員が行くべきだという主張の裏返しの表現だった。
権藤も冬の東北地方の厳しい寒さは聞かされていたので、重装備の必要は理解していた。一九七〇年代になったばかりの頃だったが、すでにレジャーブームが隆盛期を迎え、スキー人口も激増していた。お洒落で斬新な防寒着や防寒用品が市場にあふれていたが、権藤にとってファッション感覚はまったく無縁のものだった。権藤に子供でもいたら少しは違っていたのだろうが、彼の感覚は二〇年前の状態のままだった。彼の重装備とは、彼が二〇年前に購入した防寒靴と防寒着で装備することだった。彼が考えている防寒靴は、若い頃に一、二度履いたことのあるズックの登山靴で、防寒着は同じように若い頃に着ていた綿入れの分厚いコートだった。そのいでたちで山形へと向かおうとしていた。ちょうど戦後間もなくの頃、シベリア帰りの復員兵たちが舞鶴港の桟橋に降り立った時の身ごしらえに似たものだった。
東京を経由して山形に向かうため、権藤は京都から東京行きの新幹線に乗った。ここ一〇年ほど、一度も名古屋以東の出張が無かったので新幹線に乗るのが余程嬉しいのか、子供のように一刻も黙って座っていることができなかった。京都から米原辺りまでは、持参したカメラや三脚を弄(いじく)り始め、それに飽きればバッグを荷物棚から下ろして忙(せわ)しく中を確認したり、登山靴の紐を結び直したりと、動物園の小動物のように動きを止めることがなかった。近くの座席の乗客から迷惑そうな視線を向けられると、その時は一旦動きを止めて家から持参した魔法瓶からコーヒーを飲んでやり過ごしていた。浜松を通過する頃には、少し落ち着きを取り戻したように見えたが、不思議なことに車窓の景色をまったく気にも留めない。静岡辺りに差しかかると、今度は東京が近くなってきたことが原因なのか、再び落ち着きがなくなった。カメラと三脚、荷物棚の荷物、登山靴の紐に関わる三つの作業を秩序正しく繰り返しながら、ただ温泉旅館での慰労会に思いを馳せていた。
厳冬の中を最寄りの駅から歩いて、権藤が温泉旅館に到着したのは午後の四時だった。慰労会は夕方の七時から始まる予定なので、宴会まで二、三時間の時間的な余裕があった。彼が旅館に着いたことを知った会社の仲間が、先に温泉に入って体を温めることを権藤に勧めることにした。権藤に異論はあるはずもなく、彼は部屋に荷物を置くと、まず浴衣に着替えて大浴場へと向かった。温泉旅館の大浴場は旅館の一階ロビーの奥から地下に降りたところにあった。脱衣場には、露天風呂に入浴する時の心得も掲示されていたので、彼は地下の大浴場の奥は、そのまま野外につながっているのだと理解し、宴会後には露天風呂にでも入ろうと目論んでいた。
東北の冬は寒さが厳しいので、東北地方のホテルや旅館の大浴場では脱衣場から大浴場への扉が二重になっていることが多い。この温泉旅館の大浴場も同様で、一枚の扉なら開くと一気に外の寒気が入りこむので、扉は観音開きの二重になっていて、互い違いに脱衣場側の手前の扉では右半分が開き、浴場側の扉では左半分が開くというように、うまく外気が入り込まないように工夫されていた。この大浴場の扉もいずれも観音開きの大きな二枚ガラスで出来ていて、右側のガラスが開く場合は左側のガラスが開かないように固定され、逆に左側のガラスが開く場合は、右側のガラスは開かないように固定されている。
権藤はさっそく脱衣場で浴衣と下着を脱いで裸になり、手拭で股間を押さえてそのまま大浴場の全面ガラスと思われる扉を押した。彼は極度の近視で、眼鏡を外せばほとんど周囲の事情が分からず、目の前一〇センチが辛うじて見える範囲であった。しかもガラスの扉が観音開きになっていることにも気付かず、大きな一枚ガラスの扉と認識していたのだ。彼は大浴場のガラスの扉の中央よりやや右寄りの部分を押したが、ガラスはぴくりとも動かない。それもそのはずで、観音開きの右側のガラスは固定されている。権藤にもう少し視力があればガラス扉が観音開きであることも分かって、左側のガラス扉を押すなど余裕のある行動も取れたのだが、浴場からの湯気がさらに視界を悪くしていた。彼にはなぜ扉が開かないのかまったく理屈が分からない。
さらにもう一度、力を入れてガラス扉の同じ場所を押してみるがやはりまったく扉は動かない。大浴場の扉は、高さが二メートル以上もあるガラスの扉で、焦り始めた権藤は開けるには余程の力が必要と思ったのだろう。渾身の力を振り絞ってガラスの扉を押した。ぐっと腰を入れて手に全体重をかけたその瞬間、固定されていた右側のガラス扉は権藤の力に耐えきれず、押し続けた部分を中心に、腰砕けのように四方八方に亀裂を走らせ、大音響と共に崩壊してしまった。
大きな破片も小さな破片も、ガラスの欠片は権藤の裸の全身に降り注いだ。悪いことに権藤が強い力でガラスの扉を押して、ガラスが砕けると同時に、彼の腕もガラスを突き抜けて大浴場側に突っ込んでいったので、腕から肩だけではなく体幹部分にもかなりの傷を負った。権藤が大浴場に入ったのは、大浴場の掃除が終わって湯が張られた直後だったので、浴場や脱衣場には彼以外は誰もいなかった。つまり権藤はガラスの欠片を浴びて血だらけの状態でただ一人脱衣場にいたことになる。
権藤は狼狽(ろうばい)しながらも素っ裸なので、外部の人に助けを求めることもできない。そこで脱衣場に積まれてあった純白の手拭いを次々と手に取って、出血の激しいところを止血のために縛り始めた。エジプトのミイラのように、肩から、手足、太股と、体中を手拭いで縛り続けていたが、腕の付根の部分だけは、必死に出血部分を縛っているつもりなのに、何度縛りなおしても瞬時に手拭いが朱に染まる。何のことはない、本当に出血しているのは腕の付根ではなく耳のすぐ横で、そこから滴り落ちる血が顎を伝って腕の付根の手拭いを染めていたのだ。
ちょうどその頃、偶然に会社の仲間の一人が脱衣場に入ってきて、この大惨状の第一発見者になった。脱衣場は床も壁も真っ白だったので、飛び散った血の赤と、赤く染まった手拭で体のあらゆる部分を縛っている権藤の姿が、その場の悲惨さを一層色鮮やかに浮かび上がらせていた。同僚の通報で、他の社員や旅館の従業員も駆け付けてきて、血だらけの惨状に驚いたものの、それ以上は手の施しようもなく、救急車を呼ぼうということになった。ところが仲居頭のような女性が、この旅館の二軒置いて隣が小さな病院で、ここでは救急車を呼んでも時間がかかるので、いっそこの人を病院に担ぎ込んではどうかとアドバイスしてくれたのだ。そこで会社の仲間と旅館の若い衆が、権藤を戸板に乗せてさっそく病院まで運ぶことになった。権藤が運ばれた後の残された脱衣場には、真っ赤な血に染まった無数の手拭が散乱し、まるで凄惨な殺人現場のような有様だった。
仲間たちの間からは、もはやあれでは助からないだろうという悲観的な声も漏れていたが、全身に及んでいた傷は思ったより浅手ばかりだった。医者のところまで戸板で運ばれて、一時間も経たない内に、頭のてっぺんから足の先まで、体中に包帯を巻かれた権藤が、付き添っていた社員に伴われて旅館に戻ってきた。権藤の大小取り混ぜての傷の数は相当のものらしかったが、深手がほとんどなく、全治一週間という診断だった。巡回展示会の応援に駆けつけたが、役に立つ前に厄介者になってしまった権藤に対して、仲間も口には出さなかったがほとほと困惑していた。
会社としては権藤を明日にでも京都に送り返したかったが、さすが一日では動けるまでに傷は回復しないということで、少なくとも三日ほどは旅館で預かってもらうことになった。今夜はこのまま部屋で寝かせておくことになっていたが、責任者の役員が人情家で、このまま帰したのではあまりに気の毒だと思ったのか、権藤をこれから始まる慰労会には形だけでも参加させることを提案した。浴衣にどてらを羽織って、権藤は黙って主賓席に座っていた。勿論、料理を食べたり酒を飲んだりできる状態ではないので、旅館の仲居さんにストローでジュースを飲ませてもらっていたが、少なくとも念願の慰労会には参加できたのだった。賑やかな芸者の踊りを眺め、三味線の音を聞きながら、権藤はただただ無念の表情を浮かべていた。