糺の森
「千の点描」 <第一五話>
下鴨神社の境内の森は、太古そのままの姿を今日に伝える原生林である。地域の人たちはこの森を「糺の森(ただすのもり)」と呼んでいた。「糺の森」の“糺す”には、その語源に諸説ある.。古代日本で行われていた神明裁判(神が判断を下す裁判)の「盟神探湯(くかたち)」が行われた場所であったというのがその中の一つで、私はこの説が好きだった。容疑者に熱い湯をかけ、火傷すればそれが犯人の証拠であり、無実の人なら火傷もしないというのが「盟神探湯」で、罪を糺す場であることから“糺す”の森と呼ばれたという説だ。あまり根拠のない説のようにも思えるが、「糺の森」の厳かな雰囲気に魅せられると、いかにも正しい語源だと思いたくもなる。
「糺の森」の参道には全くと言っていいほど電柱がなく、境内を包む鬱蒼(うっそう)とした森が、周辺のビルや建物の姿を完全に遮蔽している。そのため、街道筋を馬が疾走する場面など、時代劇映画のロケ地としてよく使われていた。そのことと直接関連があるかどうかは知らないが、当時は下鴨神社の周辺に多くの映画人が住んでいた。私が高階と知り合ったのもこの下鴨神社の界隈で、友人から映画関係の仕事をしている人だと紹介された。高階が映画界とどんな関わりを持っていたのか、その後幾度も話す機会があったが、いつも話をはぐらかされて肝心のところに着地しないのでどうにもよく分からない。ただ一度、二度、高階が「鞍馬天狗」でお馴染みの映画俳優、嵐寛寿郎の内弟子になろうと、彼のところを訪れたという話は聞かされたことがあった。また、何度も内弟子に志願してその度に断られたという苦労話も耳にした覚えがある。それだけの根拠に過ぎないが、私のイメージの中で高階は、立派に時代劇映画の関係者であった。
私は当時二〇歳だったが、高階は私の倍ほどの年齢で、普通なら気軽に話すことはないし、まして一緒に仕事をすることになるとは思いも寄らない。彼が学校の大先輩であったというなら、そして後輩の私に仕事を世話をしてくれるといった、それなりの実利的なメリットでもあれば、先輩、先輩と胡麻をすってお付き合いする可能性はあった。ところが高階の場合は、その手のメリットは皆無なので、よほど二人の気が合って、年齢を無視できるほど肝胆相照らす仲になったということでもなければ付き合う理由もない。それでも結果的に私は彼と付き合うことになったわけで、それには当然それなりの理由があった。
世間では「大人びた子供」という表現があるが、高階はその逆で“子供びた大人”とでも表現すべき奇妙な存在だった。当時のテレビの中継で、中年のアナウンサーが大学紛争で封鎖されている大学を取材で訪れていたことがあった。ポロシャツ姿という軽装で、そのアナウンサーが学生たちの集団に混じり、講堂に座り込んで対話する場面を見たことがあった。アナウンサーは学生たちに媚びるような快活な笑顔を見せながら、「僕も君たちの目線で本音の話がしたい!」などとしきりに言っていたが、私たちに対する高階のスタンスもそれに似たようなものだった。二〇歳も歳が離れているのに、私たちが普段集まる学生飲み屋に常連のように顔を出し、私たちが屯(たむろ)する喫茶店にやってきては、私たちと同世代であるかのように振舞い続けるのだった。
私はその頃大学生だったが、通っていた大学は大学紛争で実質的にその機能を失っていた。つまり私たちは突然中途半端な状態で社会に放り出されたのだった。静かに我慢強く大学機能が復元するのを待つこともできたが、一旦大学から解き放たれると、リードを外された犬のようなもので、中々元の場所には戻りにくくなる。そうした帰属の定かではない日々を送っている内に、些細なことがきっかけで、商売でもしてみようという思わぬ流れになったのだ。
京都大学近くの大きな寺の境内で、学生グループが主催するフリーマーケットが開催されたことがあった。日常的にお金のなかった私たちは、わずかなお金を求めて数人の仲間と一緒にシルクスクリーンで刷ったポスターを売ることにした。シルクスクリーンで刷ったポスターを売ることにしたのは、大学紛争の過程で立て看板づくりに熟達した学生が私たちの仲間がいたからだ。売れる自信があったわけではないが、差し当たりすることがなかったし、何となく面白そうに思えたのだった。チェ・ゲバラのベレーを被ったあの有名やポートレートや、ピカソのゲルニカに登場する牛や馬、あるいは喜多川歌麿の春画などをさらにポップアート調にアレンジして販売することにした。正直あまり売れるとは考えてはいなかったので、それぞれ二〇〇枚程度をプリントして販売に臨んだのだが、予想外なことにフリーマーケットが始まって二時間ほどでポスターは完売した。偶然それを見ていた広告制作会社のディレクターが、私たちのポップアートのポスターをちょっとした地域イベントに利用することを思い立ち、大した金額ではなかったが、実際にシルクスクリーンのポスター制作を受注することになった。その時の制作会社の担当のディレクターから、このグレードの作品なら、ちょっとしたビジネスになる可能性があると聞かされた。
半ばお世辞に過ぎないと分かっていて、それを聞いてすぐに商売を思い付くというのはあまりに愚直な判断なのだが、実は私たちの仲間の中には家業を継いだ木版画のプロの彫師(ほりし)と摺師(すりし)がいて、京都芸大に在学中のポップアート系の優秀なアーティストも何人かいた。このメンバーなら儲けはさておいても結構面白いものが作れると直観的に思ったのだった。しかし学生たちの遊びのレベルだったらほとんどお金もいらないが、実際の仕事ともなると仕事場もいるし、販売の実務を担当する人間も欠かせない。つまり、遅まきながら多少は元手が必要だと気付くこととなった。
お金のこととなると日々の生活にあくせくしている私たちにはとても解決できない高いハードルだったので、思いあまっていつも私のことを気に掛けてくれている叔父に相談してみると、一〇〇万円くらいなら私が出してやろうとありがたい申し出があった。それなら何とかなると、瓢箪(ひょうたん)から駒で本当に仕事を立ち上げることになった。フリーマーケットに出品してからわずか一カ月目のことだった。そこで糺の森の北西側の出口から歩いて五分ほどのところ、河原町通りの北への延伸である下鴨通りに面した小さな民家を借りて、そこに小さな会社を置くことにしたのだ。
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