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最も美しい風景

「千の点描」 <第九話>

列車はいま緩やかなカーブを描いて海岸沿いを走っていた。人が心に思い描く中で、最高の色合いをした青色が空いっぱいに溢れ、キャンパスに記された画家のサインのような小さな純白の雲が青空の一画にさりげなく配置されていた。
その圧倒的な青の世界の上を、横一線に水平線が走り、少し暗く、ぬめりを含んだ海の青が地平線から海岸へと迫ってきていた。列車が走る大地は、ところどころ海へとその舳先(へさき)を延ばし、舳先の周囲には、大地と海の間に生まれた私生児のような小さな島が点在していた。

私は、これこそ海だ、これこそが海岸だと、唯々こみ上げてくる感動に心を震わせていたが、やがて列車は一旦海岸線から遠ざかろうとしていた。おそらくこの列車の進む方向に大きな岬があって、その岬を横切るために迂回しているのだ。列車は海岸線から内陸部へと次第に逸(そ)れて、やがて樹木が生い茂る林の中へと入り込んだ。しばしの間、車窓に迫ってくる樹木だけが私の視野を独占していたが、長い林を通り抜けてやっと視野が広がったと思うと、そこにはあるべきはずのあの広々とした海岸線や地平線は掻き消されていた。思いもかけないことに、そこには遠い昔の火山の噴火によって創られ、溶岩石色に塗り込められたごつごつとした不毛の大地が視野いっぱいに広がっていた。それは、いつまでも続いていたはずの美しい海岸線の景観が、私の記憶から突然奪い去られたような感覚だった。
 
しかし、海岸線の美しさが失われたことによる喪失感は一瞬のことで、すぐに私は新しく目の前に登場した景観に心を奪われた。列車は何もなかったかのように、スピードを上げるでも落とすでもなく、海岸線を走っていた時と同じようなスピードで、灰色の大地を真っ二つに裂くように走っていた。列車の窓から見る風景は、右の窓からも左の窓からも、まるで鏡に写したように瓜二つで、溶岩流が残していった奇岩の群れが幾重にも重なって見えた。灰色一色の世界に草木の緑はない。それでも、限りなく灰色に近いコバルト色の溶岩湖に、焼け焦げた姿で立ちつくす樹木の残骸が湖面にその姿を映し、遠い昔の緑の名残をわずかに残していた。
そしてそれは、遠い昔にこの大地が緑豊かな沃野であったことを、今も語り続けているように思えた。溶岩色の大地は、はるか昔に鮮やかな色彩を失いながらも、やはり限りなく美しかった。この上なく美しい風景が永遠に続くかのように列車は走り続け、列車の前方には灰色の地平線が無限に広がっていた。

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