千年前の追憶
「千の点描」 <第一話>
三〇度ほどの勾配で、堅固な木製の階段は真っ直ぐ二、三〇〇メートルも斜め上へと延びていた。幾層にも重なって走る東京メトロの路線の中でも、最も深い路線の地下の改札口から地上へと一気に向かうエスカレーターのように、乾いた木の質感を残しながらも無機的な直線が延々と続いている。私はいったいなぜこんな場所にいるのかと、当然の疑問が頭をよぎったが、この奇妙な階段が向かっている先への大いなる興味が、私の足を無心に前へと進ませた。階段に一歩足を乗せると、靴底を通して木の感触が伝わってくる。私が恐る恐る階段を上っていることもあって、足音はほとんど聞こえない。前を向いて一歩一歩と階段を上るが、階段が長過ぎて少しも前進しているようには思えない。しかし、後ろを振り向いて階段の足許を見ると、すでに百貨店のエスカレーターで言えば、二階ほどの高さにまで達していることが実感できた。
長い階段のあるこの建物は、間口が五〇メートルほどもあった。階段を上るまでは建物の全体像について少しも意識することはなかったが、階段を上がり始めると異様に長い階段の意味が気になり、同時に何の目的でこのビルが建てられたのかを意識するようになった。漠然とビルの印象を思い返すと、扉が開けられたままの飛行機の格納庫のように、正面部分が大きく開け放たれ、体育館のように野放図な空間が広がっていたことを思い出した。格納庫の入り口のような開口部の高さはおそらくビルの三階分くらいあったように思えた。
その広い空間の中央部分に、さして幅もない細い階段が配置されていた。正面の開口部から差し込む野外の光が階段を控え目に照らしていて、階段を上に上るほどにその光は弱くなっていった。さらに一歩一歩と、いつ果てるともない長い階段を夢中で上り続け、ふくらはぎの筋肉が悲鳴をあげる頃になってようやく階段の最後の段を上り終えた。背中を四十五度に曲げて両手で膝をつかみ、しばらく息を整えなければならないほどのきつい作業だった。そして決して容易ではなかった一〇分ほどの苦行を再確認するように、もう一度階段の方に歩み寄ってそのまま下を覗き込むと、かつて存在したパプア・ニューギニアかインドネシアの部族が住んでたという樹上住居のように、細い一本の階段が地上へと長い足を伸ばし、その足元を外の光が照らしていた。
階段を上がりきったところには、ちょうどテニスコート半分ほどの広さの開けたスペースがあった。スペースには、作業場とか倉庫といった用途をうかがわせるなにがしかの痕跡が残されているものだが、目の前の空間にはその痕跡がない。何か具体的な役割が与えられているようには思えず、ただ緩慢な時間の経過を静かに受け入れて横たわっているかのように見えた。空間には窓はなく、蛍光灯も裸電球も照明器具らしきものは一切ない。ただ、この建物のいずれかの窓から差し込む光が、何度か壁面を反射、屈折しながらこの空間に最小限の明るさを届けているように思われた。薄明りの中で見る床は、湿度を含んだ打ちっ放しのコンクリートに似た鈍い光沢を放っていた。
その床の上を、直線的でありながらナメクジの通った後のように、メタリックな光の反射を伴う微(かす)かな線条が残されていた。何か重い荷物を引きずった痕なのか、あるいは何かを意図した目印なのかと少し思案を巡らせたが、コンクリートが乾燥する際に偶然生まれた床材の微細な皴(しわ)のようにも感じられた。深い意図もなく私はその線条を目で追ってみたが、結果的にその線条は、私を何処かへと誘導する導線として働いてくれたのだった。
微かにきらめく線条は、階段を上がったそのままの方向に延々と続き、二、三〇メートルほど進むと緩やかに右方向にカーブしていった。私がそのままサインにしたがって右へと曲がると、薄暗い倉庫の中のような空間の先に、ほのかな灯りが見えた。昔話によく出てくる山道に沿って建つ一軒家の窓から漏れる灯火のように、私は安堵と不安が入り混じったような心持でその灯りを眺めた。そして、灯りに誘われるように、そのままゆっくりと歩き始めた。角を曲がって、灯りまでの距離の半ばまで来た時に、思いもかけなかったことだが、その灯りがバーらしき店の前に置かれた看板であることに気付いた。
看板の前に立つと、そこは確かにバーに違いなかった。好ましい大きさの窓が視界に広がり、一点の曇りもなく磨かれた透明の窓ガラスを通して、手入れの行き届いたバーの内部が見えた。まるで見えない力に導かれるように足を踏み入れたこの不思議な建造物だが、いかなる目的で建築されたのかを推し測る暇もなく、バーの存在感に急かされるように、私は磨き上げられたバーのドアノブに手を伸ばしていた。重厚な手応えがありながら、軋(きし)みもなく軽やかに開閉する扉を押して室内に入ると、窓を通して外から見た印象を少しも裏切らず、バーの室内は整然とバーらしい秩序と美しさを備えていた。先代から続く老舗の本格バーであると主張するような不自然なさりげなさではなく、客の快適さに必要なものだけが、必要な場所に置かれていた。
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