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蛇崩川

「千の点描」 <第一七話>

世田谷の弦巻(つるまき)には、かつて「蛇崩川(じゃくずれがわ)」という名前の小さな川があったらしい。あったらしいというのは、川はすでに埋め立てられて、今は緑道になっているからだ。その道のどこかに緑道の由来が書かれたプレートがあって、そこにかつて「蛇崩川」という川があったことが記されている。緑道はかつての「蛇崩川」の流れそのままに、弦巻から三軒茶屋へと川の名前の通り、蛇のように曲がりくねりながら続いている。川の周辺に生えていた樹木をそのまま緑道に残したものと思われ、道の縁には大小さまざまな樹木があった。緑道に沿った家の住民が世話をしている花壇も多く、そうした樹々や花々が季節ごとに歩く人の目を楽しませていた。
緑道は三軒茶屋から、さらに玉川通りを越えて延々と続いているようだが、一、二度足を延ばしたが、私にとって特別な意味を持っていたのは弦巻辺りから三軒茶屋の玉川通に面した郵便局の近くまでだった。道に沿って小さな自然が続くというのも爽快だが、樹木の枝葉が緑道を覆い、都心のビルを目にすることなく歩けるのが何よりうれしく、三軒茶屋に用事がある時は、余程のことがない限り、弦巻からこの緑道を歩くことにしていた。
 
弦巻から三軒茶屋までは、弦巻通りなど普通の街路を歩けば三〇分くらいの距離だが、緑道を歩いてもほとんど所要時間は変わらないはずだった。区画された歩道を、辻ごとに直角に曲がりながら進むよりも、多少は蛇行していても直線距離に近い経路を辿っているように思えるので、所要時間が三〇分より短くても不思議はなかった。ところがある時、三軒茶屋で人と待ち合わせをしていて、三〇分で着けると見込んで出かけたところ、四五分もかかってしまって、約束の時間に遅刻する羽目になった。
この時は、緑道でポニー種のきれいな白馬を連れて散歩をしているお洒落な人に会い、まさか都心できれいな白馬に遭うとは思っていなかったので、しばらく馬に見とれていた。馬は純白で、馬の飼い主もポニー種の馬に似てなかなか気品のある初老の男性で、一言、二言、言葉を交わした記憶がある。馬に見とれて、その馬の飼い主と言葉を交わしたのは、併せてせいぜい四、五分のことだと思っていた。ところが、三軒茶屋まで一五分も余計に時間かかったとすると、意外に長い間馬に見とれていたと考えるのが自然だった。しかしそれでも、何か釈然としない思いが残ったので、翌日にもう一度時計を見ながら同じ道を歩いてみることにした。途中、七環路が緑道を横切っているところがあって、そこが行程のちょうど中間点くらいに当たるので、七環路に出合ったところで時計を見てみると、驚いたことに弦巻のいつもの緑道の入り口に入ってからすでに二三分も経過していた。結局三軒茶屋の目印の場所までは四三分もかかってしまった。

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