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「好き」とは何か、江國香織さんの『きらきらひかる』を読んで思うこと。

起き抜けに漠然とした不安に襲われて、目覚ましを切る。
昨夜はよく眠れなかった。彼のバイト終わり、帰宅すると電話をかけてきてくれるかと思いきや、「寝ます」の連絡の後何も起こらなかったからだ。
こちらは、帰宅の連絡をまだかまだかと首を長くして待ち、逐一LINEで「まだ起きている」アピールをしていたのに。

こういうことは今回が初めてではない。普段は有無も言わさず私から電話をかけてしまうし、たいてい電話に出て構ってくれるから問題なかった。ただ、今回はどうしても彼の意志で彼から電話をかけて欲しかった。

先日、彼を含め仲の良い何人かで飲みに行った。そのうちの一人が、彼女とのいざこざを引きずり、「もう別れようかな」と嘆いていた。どうやら、アクションはいつも彼からで、彼女から主体的な愛情表現がないというのだ。私の恋人は余裕のある顔で相談に乗っていたから、ふと思い出して呆れてしまう。一体何を考えているのだろう。

アクションがないことに、常に苛立っているわけではない。今回の私の気持ちは偶然、さまざまな出来事や、心理状況や、健康的な事情が重なってしまって、こうなったのだろうと(勝手に)結論づけることはできた。ただ、不安を感じたり、(彼が私のことを好きでなままでいてくれる)自信がなくなってしまったりしたことは紛れもなく事実だった。発見してしまったそれらの事実はどうしてもおさまえることができず、今日一日鬱々とした気持ちで過ごした。

気持ちを晴らそうと、数少ない友人をカラオケに誘ったものの、片っ端から断られて余計に気持ちが沈み、どうにか孤独に耐えようと最寄駅のお気に入りのラーメン屋に向かった。そういえば、前回このラーメン屋に立ち寄った時も孤独に打ちひしがれていた時だった。おかわり自由の白米を、茶碗一杯にしてかき込み、拗ねた子供のようにむくれながら「しばらくラーメンはいいや」と写真と共に彼に送りつけたことは記憶に新しい。

ラーメン屋というのは、複数人で行くものではない。カウンター席しかなければ、空いた席が隣り合っていなければ会話ができないし、食べるペースが合わなければどちらかがスープを啜りながら宙を仰ぐことになる。隣り合っていたとしても、湧き出た食欲に勝てず皆黙々と食べてしまうから、会話どころではない。一人だからこそ、何も気にせず美味しく食べられるのがラーメン屋だ。そういう意味で、ラーメン屋は心のチャージスポットだと思った。

今日はラーメン屋に行くことは言わなかったし、拗ねたLINEも送らなかった。何も言わなかった。何かを言ってほしかったから。

腹ごなしに涼しい部屋で江國香織さんの『きらきらひかる』を読み進める。半分以上残っていたにもかかわらず、スイスイ読んでしまった。主人公の笑子はアル中で、夫の睦月は同性愛者で恋人がいる。そんな奇妙な関係は、バランスを保てていたはずだけれど、社会の「普通」にさらされていくうちに崩れてしまう。

物語の中で、笑子がヒステリックを起こす様子が多数描写されている。泣いたり、物に当たったり、人に当たったり。言ってはいけないと思っていても言ってしまう。拗ねて、察してほしいと思ってしまう。それでも、相手は全てを汲み取ってくれるわけではないと分かっているから、もどかしい。そんな、精神異常や躁鬱や嫉妬やメンヘラのような言葉に当てはまらない、確かな感情が、私の中にもある。それが、「好き」という感情なのかもしれない。


今回の私の気持ちは、「偶然の巡り合わせによる不慮の事故」ということにして蓋をすることにした。明日の夜は母がカラオケに付き合ってくれるらしい。多分、今彼に電話をしてしまえば1から100まで話してしまうだろうけど、それはそれでいいと思った。それで嫌われてしまうなら、9ヶ月も付き合い続けたことは長い夢だったのだといえるから。

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