「愛を終わらせない方法は手に入れないこと」の意味を考えてみる
「愛を終わらせない方法は手に入れないこと」。
『四月になれば彼女は』の映画の中で、登場人物の弥生さんが言った言葉である。狐に摘まれたような気持ちになる言葉で、はてさて……と思っていたのだけれど、何か思い立って過去のnoteをなんとなく見返してみると、過去の私はこんなことを書いていた。
この文章自体はまだこの映画が公開されるずっと前に、ふと思い立って書いたものだ。手前みそで恐縮だが、私はこの時ヒントを書いていた。「人を好きになる感情は極めて利己的な感情」であると。
好きだからその人のことを愛したいと思うし、手に入れたいと思うのだ、自分が勝手に。
手に入れる=「所有する」という感情も、極めて利己的な感情だ。自分が勝手にそれを手に入れたいと思うんだから。愛は「所有したい」と思うほどの利己的感情を裏にはらんでいる。そういう危なっかしいものでもあると認識をして、手に入れない=利己的な感情を相手(他人)に押し付けない。それが愛を終わらせない方法だ。ということではないかと、自分のnoteを読み返して思ったのだ。
相手を思う気持ちは暴走すると、相手を独占したり、支配しようとしたり、束縛しようとしたりと、相手を自分の思い通りにしようとしてしまいがち、自分が勝手に思った「相手にはこうあってほしい」を押し付けようとしてしまいがち。お互いが相手に理想を押し付けあうことでそれがすれ違ってケンカになったり、険悪になったり相手に対して幻滅したりして「愛は終わる」のだ。利己的感情に「愛」が乗っ取られたといってもいいかもしれない。
そう考えると辻褄は合う気がする。ただ、それ以上に深淵な意味が込められているようにも感じるし、結局そういう単純なことかもしれないとも感じる。一番身近な人を傷つけたり、言いたいことが言い出せなかったり、目の前に現れた選択を選びきれなかったり、自分を静かに見つめられる状態で世界を旅することでやっと、それがわかっていくのが人間という存在かもしれない。
※ここから以降は、若干映画の核心に触れる(いわゆるネタバレ要素がある)考察になるので、映画未視聴でネタバレを気にされる方はスクロールしないでね。
その意味でも「春」と「春サイドの人間」である「春の父親」は、あの映画においてやはりシンボル的な意味を持たされているように感じる。
「春」は「愛」の化身(シンボル)として愛の淡さとか儚さとか危なっかしさを表わしていて、狂気すら感じるあの父親は「利己的感情に乗っ取られてしまった愛」の化身的な意味を持たされているように思う。娘を愛する気持ちがいつしか娘を「手に入れようとしている」結果があの姿だ。
客観的に見たら、あの父親はどう見てもぶっ壊れているし怖いと感じる人も多いと思うのだけど、意外と、自分自身では利己的感情に愛が乗っ取られて見るからにヤバい感じになっても気づかない。だって当の本人は「愛している」と本気で思っていて疑わないから。なんなら、相手も気づかなかったり麻痺する場合がある。長年一緒にいたりするとそれが当たり前になるから。
ね? 愛って怖いでしょ? だから手に入れようとしてはダメなんだ。
愛したいと思う人に対して、自分がやってしまった失敗を思い返したり、行き過ぎた愛が刑事事件になってしまうことがしばしばあることも考えると、愛が利己的感情に乗っ取られるとあのくらいヤバいし怖いものになることもなんとなくわかるのではないだろうか。
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