認知症介護・在宅からグループホームへの道のり
こんにちは。ハチです。
私のnoteをご覧いただきありがとうございます。
2024年3月現在私の母は地域密着型のグループホームという介護施設にに入居し、元気に生活を送っています。
私は実家で1人暮らしをしています。
グループホームに入るまでにはいろんな道のりがありました。
私の手帳の記録が頼りで、私自身が「統合失調症」で入院した時期と重なっているできごともあり、曖昧な部分もあるのですが、思い出せる限り、書いてみようと思います。
1つの体験談として参考になるのであれば幸いです。
帰郷と母の異変(序章)
私は2019年に訳あって離婚して、住んでいた東京から実家に戻ってきました。母は当時87才、私は55才でした。
その頃にさかのぼって少しずつお話していきますね。
実家に戻ってくる前の5月の初め頃、引っ越しの下見をするために実家に帰った時、母は離婚することになってしまったことを、一緒に悲しんでくれて、離婚は思いとどまれないかと夫にも話をしてくれたようでした。
そんなことをさせて、自分がとても情けなく、また申し訳なく思っていました。
その頃、母の状態はごく普通で、異変は感じられませんでした。
ただ、私がまだ東京にいた2016年頃、何度か地元の民生委員の方が電話をくれたことがありました。
内容は、「起きたら変な人が横に立っていて、自分のことを起こすのよ。とか
「夜中に雨戸をたたいて入ってこようとした人がいる」などの奇妙な話をするので、一度様子を見にかえってきてあげてほしい、といった内容でした。
当時私は「統合失調症」で入院しており、その話をきいた夫は随分困っていたようでした。
状況を話して、帰れるようになったら帰る、ということになっていたようです。
私は退院してからそのことを聞きました。
それでも携帯で普通に電話できていたし、退院してすぐのころに話をした時も、特に変だとは思いませんでした。
2019年に実家に帰ってきた時、母はずっと続けていた書道の塾を相変わらず、自宅で営んでいて、12人ほどのお弟子さんがいました。
耳は少し遠くなったかな、という程度で、話も普通にできていて、不安は感じませんでした。
お月謝のやりとりでも、トラブルなど聞いたことがなかったのです。
内科や整骨院に通院していたのですが、私が付き添う時でも、お会計は自分でできていました。
それでもその頃の母は既に「要介護1」だったんです。
独居だったため、民生委員さんの申し出があり、通っていた内科の先生が診断書を書いて、介護認定を受けていたそうです。
大事なことなのに、私は自分のことで手一杯で、こんなことも知らなかったことに少なからずショックを受けました。
でも、その年は目立つ異常はなく、一緒にフィギュアスケートをテレビでみて、羽生選手の応援をしたり、楽しくおしゃべりできていました。
年が明けて2020年の春、書道塾の生徒さんの大半が小学6年生になりました。
今の時代、子どもたちは習い事が多くて、ダンスやスイミング、バレエや英会話など毎日大忙しです。
6年生になると中学生になってからのことを考えて、学習塾もプラスされます。
そうなると書道の優先順位は低くなり、やめていく方が多くなってきました。
大人もいたのですが、事情があってやめる方もいたりで、人数が一気に減りました。
それとともに、母は心の張り合いが少しなくなってしまったのか、ぼんやりする日もあったり、様子に変化がでてきていたように思います。
20年以上前、大腸がんで手術した時も、書道塾を再開するという目的があっそのおかげで、回復がとても速かった母なのです。母の生きがいでした。
それでも、まだ異変というようなことはありませんでした。
介護保険のサービスも、この頃はまだヘルパーさんが週2回各1時間、家事をしに来ている程度でした。
私の方も統合失調症の余波がすっかり抜け切れていないものの、かなり回復してきているといった状態でした。
2020年春はこんな状態でした。
母の異変と介護サービス
母の認知症は2020年春から夏にかけては、大きな変化は見られませんでした。
ただ、耳が前よりも遠くなって、玄関のチャイムに気づかないことが増えたり、私の声も聞こえにくくなっていたようです。
足も弱くなり、バランスも悪く、ちょこちょこ歩きになり、よろけることもあったりと、家の外に出る時は必ず付き添いが必要になってきていました。
そして、1度だけなのですが、夕食後に私の部屋に来て、
「今日はごはんもう食べたんかねぇ?」
と聞いてきたことがあり、一瞬背筋がぞわっとしたことがありました。
「さっき、食べたよ。忘れたん?」
と食べたものの説明をすると、しばらく考えた後、食べたことを思い出したのでした。
あの時はドキッとしました。ドラマで見たようなことが現実に起こるんだな、と。
短い時間内に起こった物事の方が忘れやすいんだそうです。
何年も前のことは覚えているのに、ほんの数分前のことを忘れてしまう。脳の短期記憶の部分が機能障害を起こすからなんです。本当に厄介な病気です。
当時、介護サービスは週2回ヘルパーさんに来てもらい家事をしてもらっている程度でした。
足が不安定になってきたため、入浴時がとても心配で、ケマネージャーさんに相談したところ、デイサービスの利用を勧められました。
体を動かすリハビリ中心のデイサービスと、リクリエーションをしたり食事や入浴もデイサービスをお試しした後、どちらもお世話になることにしました。
車で送迎もしてもらえるのでとても便利です。
その間、介護者である私は休めるわけです。
母は社交的な性格なので、どちらにもすぐ慣れました。ほっとしました。
馴染まない人もいると聞いて、ちょっと心配していたんです。
こうして比較的おだやかな日々を過ごしていたのですが、やはり認知症は進んでいたんです。
2020年11月のある日のこと。
玄関のチャイムが鳴ったので出てみると、近所の方の後ろに母が立っているではないですか!
「えっ、いつの間に外に?」
すぐ前の道を歩いているところを見かけて、なんとなく様子が変だと思い、連れてきてくれたのです。
”ひょっとして徘徊っていうこと?”
母に問いただすと、ちょっと知り合いのうちに行こうと思ったというのです。
絶対に一人では出かけないで、と強く言って、母の納得はしたのです。
ついに来たか、と思いました。自分の行動がおかしいことに気づいていないし、絵にかいたような症状でしたから。
事故に遭わなかったのが幸いでした。
すぐにケアマネさんに相談して、県が指定する認知症の専門病院に予約を入れました。
認知症は一体何科にかかればいいの?と思う方も多いと思いますが、基本的には精神科です。
地域に必ず認知症の基幹病院があるので、もしもの時は自治体に問い合わせるとわかります。
予約の際に、MRIの検査をすることや、家族の付添が必須で、半日はかかることを言われていました。
予約の日、若干緊張して、タクシーに乗って病院に向かいました。
母は、自分がどこへいくかわかっていませんでした。
認知症専門病院へ
2020年12月、認知症の専門病院の入り口に到着。
初めてくる病院。
母は怪訝そうな顔で、私を見ていましたが、知らんぷりして受付に向かいました。
話したところで、なかなか理解ができなくなっていたからです。
その日はまだ歩いて待合室まで行ったのを覚えています。
今は長い病院内の移動には車椅子を使っています。歩くのが遅いし、よろけるからなんですが。
受付すると、ボリュームのある問診票を渡されました。かなり細かく質問があり、時間がかかりそうです。
これに基づいて、診察前に家族のヒアリングが行われます。
その間に母はMRIの検査をし、口頭での検査(出されたものの名前を言ったり、野菜を10個答えて下さい、など介護認定の時にも行われる検査)が行われます。
MRI検査はかなり音がうるさいのですが、後から聞くと「そんなでもなかったよ。」とのこと。
耳が遠いと悪い事ばかりでもないな、と思いました。
血液検査など体の検査も行い、結果が出そろったところで、医師の診察です。
この時認知症の診断結果の前に衝撃的なことを先生が言ったのです。
MRI撮影で、頭に広範囲に出血があるのがわかったと。脳外科での検査が至急必要なので、紹介状を書くから受診して下さい、と。
「転んで頭を打ったとか、そういうことはありませんでしたか?」
2か月くらい前、庭で転倒しているのを見つけましたが、その時のことだろうか…。
でも打ったかどうかの確認は今更とれるはずもありません。
高齢の場合、ちょっとした打撲でもこのようなことがあるので、痛みを訴えないこともあるらしいのです。
画像を見せてもらって、出血が広がっているのが私にもわかりました。
「この人はどうしてこう、心配させることが多いんだろう。」と考えてしまいました。
急変することはないと思うけれど、翌日の予約確認ができたので、別の総合病院の脳神経外科を受診することになったのです。
認知症に関しては、明らかに画像でわかる程度に脳が縮んでいて、
「レビー小体型認知症」です、と早口で言われて、「レビー小体」というたんぱく質が嚢に付着して、脳の動きを阻害するもの、と説明されました。
アルツハイマー型しか知らなかったので、聞きなれない言葉に当惑しました。
更にアルツハイマー型と比べると、進行が速いのが特徴なんだそうです。
それは納得でした。
親友のお母さんより明らかに悪くなるのが早いなと感じていたのは、勘違いではなかったのでした。
主な症状として、
①見えないものが見える(幻覚、幻視)
②認知機能が良い時と悪い時の波がある(認知機能の変動)
➂歩行など動作の障害(パーキンソン症状)
④大声での寝言など睡眠中の行動異常(レム睡眠行動障害)
どれもこれも、心当たりがありました。
以前の「起きたら知らない人が立っていた」などのおかしな話も「幻覚」だったのだろうと見当がつきました。
なるほど、とようやく腑に落ちました。
とにかく今は、認知症より頭の出血をなんとかしないといけないので、まずはそちらを優先することになったんです。
「認知症の対応は後回しか・・・」
正直、心配なのと厄介なことになったという気持ちで、目の前が真っ暗という感じでした。
母はいつもこうなんですよね。なぜか大事(おおごと)になるんです。
認知症の接し方や対応を教えてもらえると思っていたのに、全くあてがはずれてしまいました。またしばらくはこれまで通り「我流」でがんばるしかありません。
翌日は朝から、総合病院の脳神経外科に向かいました。
コロナが蔓延していた頃でしたが、病院はやけに混んでいてかなり待ちました。
やっと診察室に入れたと思ったら、「まずCTも撮りましょう」ということで検査室へ行くことになりました。
こういう時は母辛抱強いいので、待ってもぐずぐず言いません。その点は本当に助かりました。
周りではぐずる患者さんを付き添いの人がなだめる光景が多くて、見ているだけで気の毒だし、私までいらいらしてくる状況でしたから。
CTの検査をしてようやく先生の診察になりました。
昨日検査したMRIと今日のCTの画像を見て、脳神経外科の若い医師は
「慢性硬膜下血腫」
と告げました。
脳内の出血ではないのでまずは安心するようにと。
脳を包んでいる硬膜と頭蓋骨の間に血がたまっている状態なんだそうです。
CTをみると確かにはっきりわかります。
対応としては、血を吸収する薬を飲んで、様子をみることが一番だと。いつまでも改善されない場合は手術で血を吸い取る、ということでした。
え、手術?と思いましたが、先生は頭蓋骨に小さな穴をあけて、血を吸い出すだけなので大丈夫ですよ、とおっしゃいます。
脳外科では簡単な部類の手術という感じでした。
「入院したりすると、認知症が進むことが多いので、手術はなるべく避けたい。なので1ヶ月に1回通って来て下さい。」
なるほど。飲み薬がきいて、血が吸収されればいいんですものね。
こうなると私も腹がすわってきました。もうとことん付き合おうじゃないかと。
結局、この脳神経外科には翌年2021年5月まで通い、時々検査して、無事母の血腫は吸収されました。
やれやれ、一安心です。
デイサービスとショートステイ
梅雨があけて7月になりました。そして、また事件が起こったのでした。
私が寝ているうちに母が外出し、かかりつけの内科に行っていたのです!
電話がかかってきて、
「今日は予約の日じゃないと思うけど、お母さんがお見えになっていますよ。娘さんと一緒でないから変だと思って。」
というではないですか!
飛び起きて迎えに行きました。母は悪びれることなく、
「今日は違う日やったみたい。」と私に言います。
「うん、そうみたいやね。一人ででかけたらだめよ。」と半ばあきらめ顔の私です。
この頃には認知症はかなり進んできていて、会話が成立しないというか、よく聞こえていないんだろうな、と思うことが頻発していました。
ただ本当に穏やかで我慢強い性格の母は、おとなしくて扱いやすい人でしたから、それはありがたいことでした。
普通苦労する排せつのお世話も、たまに失敗する程度で、自分でトイレに行けたので、手のかからない方だったと思います。
それでもずっと母と顔を突き合わせているのは、しんどくなってきていました。
ケアマネさんに相談して、デイサービスの回数を増やし、新しくショートステイというサービスを取り入れてはどうかと提案されました。
ショートステイは短期の宿泊を伴う介護サービスです。
最初は1泊2日からお試しでやってみることにしました。
担当の介護士さんが事前に顔合わせに来てくれて、とても優しそうで頼りがいある感じなので、きっと大丈夫、と確信していました。
そしてそれは想像通り、母の持前の性格で、馴染むのも早く、定期的に利用することになりました。
3泊4日や4泊5日を月2回利用することになったのです。
私にも自由な時間ができ、体も休めることができるようになりました。
それがうまくいって、母の認知症の症状は安定していました。
でも、やはり事件は起こります。
ショートステイ滞在時に頭痛がするといって元気がなく、食事もあまりとらないと連絡が入ったのです。
食事はきちんと食べられる人でした。
それもおかしいし、何より元気がないのが気になるといって、脳梗塞のテスト(手足の動きなどをチェックする方法があるんです)をしてくれたそうです。
結果は大丈夫だけど、左目が閉じかかっていて、赤くなっているので、まずは前にかかった脳神経外科を受診することにしました。
検査の結果、幸い脳には異常がなく、これは眼科で見てもらいましょうとすぐに回してくれて、診察になりました。
そうしたら、何と、左目が炎症を起こしていて、眼圧が異常に高く、ほとんど見えていないことが判明したんです。
診断は「涙嚢炎の眼圧上昇による失明」でした。
片目が見えなくなっちゃったんです。そんなことが急に起こるとは思わず、こちらが泣きそうになりました。
ただ、母は痛みがなければ、見えないことはさほど不自由ではないようで、おそらく残った右目がいわゆる「効き目」だったんでしょうね。
見えないといってもうっすら光は感じるようなので、炎症をとるめぐすりを全部で4種類、1日に4回さして、様子をみましょうということになりました。
はいはい、様子をみるのにはもう慣れっこです。
目薬をさすことくらいなら何でもありません。しかし、4種類のうち1つさしたら数分おいてまたさす、の繰り返し。数時間たつとまた目薬の時間。
私はメモ帳にチェックリストを作り、几帳面にさしました。
普段のんでいる飲み薬もあります。
目薬と薬の服用、それだけのことなのですが、毎日のことだし、結構大変ではありました。
1週間後、ずいぶん炎症は収まった感じで、受診してみると、何と見えるようになっていると!
この時はかなり驚きました。
急性の症状が収まりはしたものの、またもや定期的に眼科にもかなり長く通いました。先生は一生懸命治療を工夫してくれて、本当に感謝しかありません。
2021年はこうして過ぎていきました。
美容院にはいけないからぼさぼさになった母の髪でしたが、家に訪問してカットしてくれる美容師さんがいると聞いて、お願いしました。久々にきちんとしたカットをしてもらい、さっぱりした髪形で、年越しすることになりました。
グループホームに決めるまで
ここからは認知症の母が、ついにグループホームに入るまでのことを書きたいと思います。
在宅介護をずっとしている皆さんの中には、たった3年半で施設に入れた私を冷たいと思う方もいらっしゃると思います。
ただ、介護者が1人であるということと、私が障害者手帳を持つ身であることが大きく影響して、この結論にたどり着きました。
母の認知症が進行が速い「レビー小体型認知症」であることももちろん大きく関係しています。
それは予想よりはるかに速い進行であったと感じています。
ケアマネさんも私の家庭の状況から、早めの施設申し込みをすすめてくれました。
それに申し込んでも順番がくるのは、半年から1年後ということもあるときいたので、早めに申し込むのは肝要です。
仮に順番がきても、都合がわるければ、断ることができるので、私も決心したというわけです。
私は介護が始まる前に、2016年3月~2017年7月まで統合失調症で入院。
最初のの1か月間、治療の薬が効きすぎたのか、昏睡状態になり、目覚めた時体が動かなくなっていました。入院中はずっと車椅子生活でした。
自分で操作することも最初のうちは全くできず、看護師さん頼みの生活をしていました。
その後、入院後半の9ヶ月間はリハビリをして、何とか歩けるようにはなりましたが、走ることはいまだにできません。
人間は動けなくなるのは一瞬です。動ける間にメンタルの治療を積極的に受け、私のようなことにならないよう、切に願っています。
そんな私が実家に戻ってきたのを機に、母の介護をしていくことになりました。
初めの1年くらいは母も異常ということもなく、静かな環境の中、一緒にのんびり生活していき、歩く機会が多くなり、私の体もメンタルも回復していきました。
実家に戻ることがなければ、母と生活するなんてなかったでしょうから、幸せな経験ができたと今では思います。
認知症になっても私が東京に住んだままなら、すぐ施設に入ってもらうこともあり得ました。
実際にそういう方も多いと思いますし、それはそれで仕方のないことで、何が正解ということはないと思います。
2023年に入って春頃までは、デイサービスとショートステイを組み合わせて、月に半分くらいの自宅での介護というのが定番になってきて、私も余裕を取り戻していました。
比較的平和な日々。この調子なら、何とかやっていけるかな、と気づいたら春になっていました。
春になると自然が芽吹いてきます。それとともに精神的なものも、何か新しく芽吹いてしまうのか、母の様子うがこれまでとちょっと違ってきました。
耳が更に遠くなり、言葉による意思の疎通がうまくできなくなってきたのです。
その傾向は年明けから感じてはいました。
ただ書道を長年やっていたせいなのか、文字などの視覚から入る情報は比較的スムーズに理解できるようで、名前や住所、生年月日などを書くことはできたので驚きです!
4~6月はちょうど介護度の見直しの月に当たります。ケアマネさんも、今回は介護度が上がる可能性がありますね、と。
その前に認知症専門病院で、「介護度変更に関する意見書」を書いてもらったほうがいいということになったのです。
先生はごく普通に診察し、立っている時にどの程度ふらつくかのテスト(軽くおしてみて反応をみる)や会話が成立するかどうか質問したりしました。
体がしっかりしているので、介護度が上がるかどうかわからないが、一応上げる方向で書いておきましょう、と言ってくれました。
母の場合、寝起きは自分自身ででき、ゆっくりでも歩行ができること、押してもすぐに倒れることはないので、介護度は変わらないかも、という見解ではありましたが。
毎日接する私は、体が動いてくれるのはありがたいと思いつつも、判断力や認知力はどんどん落ちているのがわかるので、先生の言うことはわかるものの、途方にくれていました。
半月ほどを自宅で一緒に過ごすのも、結構な苦痛が伴ってきたからです。
聞こえが悪いので、大声を出すし、すぐに外に出ようとするので、神経が張り詰めていました。油断大敵の状態だったのです。
介護度があがれば、ショートステイをもっと長く利用できるので、そのためだけにでも介護度が上がらないだろうか、と思うようになっていました。
そんな時、5月に母が廊下で転んで足首を骨折してしまったのです!
「こんなに一生懸命やっているのに、なんでちょっとした隙に転ぶの?」
つまづくものなど何もないところでしたが、小股ですり足で歩くようになっていた母は、どうしても転びやすいのでした。
すぐに整形外科に連れて行き、検査をしたところ、足首の小さい骨がポッキリ折れているのがわかりました。
全治2か月くらいかな、という先生の言葉。
若ければ1ヶ月で簡単につく骨も、年をとると「骨粗しょう症」になっていることが多く、治るのに時間がかかるのです。
実際母も「骨粗しょう症」でした。
幸いなことに足首なので、入院等は必要なく、ギプスで固定して、少しなら自分で動いてもいいということでした。もちろん介助は必要になりますが。
うれしいのか、悲しいのかわからないまま、淡々と帰宅し、ケアマネさんに報告、
松葉づえなどは使うことが難しいので、自宅では歩いてもいいことを確認したと伝えました。
少し大変になりましたが、基本動かずにいて、必要なときだけ移動する。
そうであれば勝手に外にいくこともないので、ある意味安心したんです。
妙な安心感ですよね。
トイレには自分で行けるのは変わりなく、問題はその頻度の多さでした。
一日十数回以上いくのです。多分念のため、もあったのでしょう。
私は歩いているのを確認したら、見守って、トイレから出てきたら介助してベッドへ連れていっていました。
夜寝ている間はもう諦めていたのでした。
24時間目を離さないなんてできるわけありません。
一方、デイサービスやショートステイは骨折していても受け入れてくれることがわかり、心底ほっとしました。
家でずっと一緒だとしたらどうしようかと思っていましたから。
丸2か月で母の骨はくっつき、ギブスははずすことができました。
やれやれ一安心です。
夏になる前に、介護認定の書類がきて、母は「要介護1」のままということになりました。
これまで通りか・・・。
正直私はもう自分の限界が近づいているのを感じていました。
そこでケアマネさんに、介護施設について、母はどんな所なら入れるのか調べてもらうことにしたんです。
とりあえず、知識だけでも欲しくて。
そうしないともう叫びだしそうな気分でしたから。
そして、ケアマネさんはグループホームを提案してくれました。
・要介護度1で認知症でも入れる
・家庭的な日常生活が送れる
・地域密着型
というのが売りの老人ホームです。
9人がグループで3人の介護者がつき、できる家事の手伝いや食事の支度を手伝ったり、洗濯物をたたんだり、家で過ごすようなことができるのです。
建物も一軒家風のところが多いと聞きました。
有料老人ホームよりははるかに安いですが、
「大学生を東京で一人生活させるくらい」の費用が毎月かかります。
地域により異なると思いますが、私のように収入のない娘にとっては安くはないです。
母の年金があるので、すぐに困るということはありませんが、これまでの生活でも自分の老後の資金を切り崩しているので、自分はどうしたらいいのかな、というのが目下の悩みです。
出る時には返してもらえますが、保証金も必要になります。
まだ手元にその程度はあったので、予約をお願いしました。どうせかなり先の話だろうと思って・・・。
ところが夏も終わったばかりの9月の終わりごろ、10月に空きがでるのでどうしますか?との連絡が。
悩んでいると、一応あと2組にも声をかける予定なので、と言われ、見学だけでもしようと思い、返事をしました。
10月の初旬、見学に行き、新しくてとても家庭的な雰囲気でとても印象がよかったのです。
これは決めた方がいいのかも、と思いました。
うちは私しか身内がいないので、相談する相手がいないのです。
私が決めなくちゃ。
数日後、担当者の方が、うちに母本人の面談に来ました。
団体生活なので、人となりを確認するためとのことでした。
雰囲気が合う合わないがあるのだそうです。
スムーズに面談は終わり、母はなにも知らないまま、翌週にはもう契約、そして次の週には入居の運びになりました。
「えっ!こんなに早く決まっちゃうものなの?」
私自身、断られたらとても困ると思いつつも、いざ入居となるとうろたえました。
でももう決めなくてはならなかったのです。
そうこうするうちに入居の日は近づき、家具は施設についているので、布団や着替えを前もって運び込みました。
布団まで自宅のものを使うのは珍しいそうです。
入所日前日。ごく普通にごはんを食べて、薬を飲む母。
あとは寝るだけです。
母には新しいお泊り(ショートステイ)にいくようなものだよ、と説明していました。
そうでないと母にはわからなかったのです。
理解力が落ちるというのは悲しいものですね。
母は期限よくOKしてくれて、楽しみにしているようでした。
私は何かだましたような気がして、罪悪感で眠れませんでした。
翌朝、身の周りのものを持って、タクシーでグループホームへ向かいました。
いつものトートバックに水筒を入れて。
母は私も一緒にくるのだと知って嬉しそうで、胸が詰まって仕方なかったです。
到着して、手早く荷物をお部屋で整理し、そこで初めて母は、
「私はここにずっと泊まるん?」と自分の家の布団がベッドにあるのを見て、怪訝そうな顔をしました。
「ここはそういう決まりなんよ。」
うまく嘘がつけました。
その日、母のいない実家に帰り着いて、私は涙が止まりませんでした。
「でもうちには好きな時に帰って来れるんだし。」
そう思っていました。コロナ以前は本当にそうでした。
行き来も自由。家族を招いての行事もあったり、泊まるところがちょっと変わるだけ、というのがグループホームの特徴だったのです。
ただその頃面会がかろうじてでき、身内のみ、と制限されていました。
よほどのことがないと帰ってこれなくなっていました。
感染症防止の観点からの仕方のない措置でした。
近場ではあるので、会いにいこうと思えばすぐに行けます。
でもしばらくはホームに慣れるまで気を遣いました。
私が行くと迎えにきたと思ってしまうからです。
あれから1年5か月、コロナの頃に比べると面会のハードルは低くなって、知人もOKになりました。
会うのも母の自室で時間制限なく話すことができます。
それでも、私は月に1回か2回、面会に行くか、病院に付き添いに行く程度にしか会っていません。
行くと母は、
「今日は泊まって行かん?」とか「うちにもそろそろ帰らんといけんのやない?」と言うんです。
それが辛くて、そうしょっちゅうは行けないんです。
いつか、泊まらなくてもいいから、自宅に連れて帰ってこよう、と思っています。
バリアフリーでない我が家では、前より足の弱った母は危なっかしいので、誰か一緒にみてくれる人がいる時に。
いつになるかわからないですが、母がまだ元気なうちに。
そうでもしないと、母が帰ってくるのはいつになるのか、もう私にはわかっているからです。
母は現在グループホームで楽しく暮らしています。
こうして書いていると、申し訳ない気持ちが止まらなくなってしまう、かといって、一人で認知症の母を自宅でみるのは至難の業でもありました。
せめて、私自身も元気で、自分の時間が許すときには会いに行ってあげようと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。