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わが心の近代建築Vol.25 江戸東京たてもの園より「田園調布の家〝旧大川邸”」/東京都武蔵小金井
みなさん、こんにちわ。
今回は、江戸東京たてもの園の建築群から、かつて東京都田園調布に建てられていた「田園調布の家」について記載します。この邸宅について記載する前に、この邸宅がもともと建てられていた田園調布の待ちの経緯について記載します。
まず、「田園都市」構想は、環境の良くない都市部を脱出し、郊外に自然に囲まれた邸宅を構えるもので19世紀末から20世紀に初めに英国で起きました。
わが国でも1918年に澁澤榮一翁が「田園都市株式会社」を設立。おりしも明治期の産業開発により、徐々に」都市部に人口が増加。鉄道網の開発とともに郊外住宅地の開発が行われます。
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この「田園都市株式会社」は洗足地区、大岡山地区、多摩川台地区(現在の田園調布駅界隈)などの開発を行い、多摩川台地区の分譲は1923年に開始されますが、関東大震災による都市の壊滅的な状況下、都市部を離れて郊外に移住する風潮もあり、売れゆきは好調でした。
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次に、この邸宅があった田園調布界隈は、田園調布の駅舎を中心に、「公園のような街に」をモットーとし、同心円放射状に道路が通った美しい町割とし、道路や公園などの公共機関が広くとらる計画が立てられます。
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また、田園都市株式会社と購入者の間で…
・建物は3階建て以下に
・建物の面積は宅地全体の5割以下
・塀を作る場合は瀟洒なもの
・建築線と道路の間隔は道路幅院の5割以上に
・住宅工賃は坪当たり120~130円以上に
の契約が締結。
邸宅の賃金に関しては、この頃の石川啄木氏の朝日新聞社での給与が¥17/月であることから、高級さを伺い知ることができます
また、田園都市株式会社は、住宅地内での暮らしを細かく定め、開発に着手。また分譲の際に作られた小冊子には交通機関、電力事業、上下水道、通信、教育機関、購買組合、娯楽施設に至るまで計画がなされました。
また、田園調布では住民間で5点の取り決めが現在も護られ、田園調布ブランドを今日に繋げています。
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次にこの邸宅の施主、大川栄氏は鉄道省に勤務する技師で…
・朝鮮に設計する橋梁のコンペに当選し収入があった
・大森の邸宅が関東大震災で焼失した事。
などから、新しい邸宅として、田園調布に邸宅を購入。
また設計者の三井道夫氏は、ニコライ堂修復工事、鳩山会館、日本生命館の設計を行った岡田信一郎氏の弟子にあたる人物で、今までの日本家屋にはない間取りが採られました。
二人の接点として、三井道男氏の父親がニコライ堂の司祭をしており、大川栄氏はそこの信者だったため、その縁で設計依頼をかけたと考えられ、田園調布の敷地に関しては、大川氏が渋沢栄一の子息と昵懇の間で、田園調布での邸宅購入を薦められた経緯があります。
【建物メモ】
江戸東京たてもの園より「田園調布の家〝大川邸“」
・竣功:1925年
・設計者:三井道男
・文化財指定:特になし
・写真撮影:可(商用厳禁)
・入館料:¥400
・参考文献:
田中禎彦監修「死ぬまでに見たい洋館の最高傑作」
内田青蔵著「お屋敷散歩」
など
※田園調布の歴史背景などは展示パネルを参照
・交通アクセス:
JR中央線・武蔵小金井駅よりバスで約5分
・留意点:毎週月曜日定休、祝日の際には翌日休館
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玄関口外観:
外壁部分はドイツ式下見板張り仕上げ。クリーム色の壁と、白い窓枠や桟が建物に非常に明るい印象を与えています。
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玄関部分の照明:
照明部分にはミミズクがあしらってあり、邸宅に遊び心が用いられています。
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南面を臨む:
洋館には不釣り合いな桟瓦になっています。
この理由として、この邸宅の設計時がちょうど関東大震災直後だったため、建築資材不足から価格が高騰し、建築部材をアメリカから輸入したため、屋根瓦を桟瓦にすることにより、資金の低コスト化を図ります。
大川栄氏はアメリカから1棟だけコンテナで建築資材を輸入するとコストがかかってしまうため、仲間うちと3棟合わせて輸入することでコストを削減しました。
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パーゴラ:
こちらもアメリカから輸入された建材が使用。
寝室前にはパーゴラが置かれ、左側には作り付けのベンチが置かれ、半円形の開口部分が邸宅にモダンさを与えています。
ちなみに、ベンチ部分は建材保護の観点から着席禁止です。
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基礎の部分のボルト:
大川邸では、建築部材不足を解消するため、アメリカより資材を輸入し手作成。伝統的な和風建築では角材を土台にするところ、アメリカから建築部材を採り入れた結果、当時の建築界では最先端だったツーバイフォー方式が採られ、2枚の板を止ているボルトが見えます。
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北側出入口:
入口近くに女中室があるため、勝手口に用いられたと推測されます。
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玄関ホール:
廊下の延長のような玄関ホール廊下と繋がり、写真左脇には作り付けの椅子が搭載。ここで訪問者らは靴の脱ぎ履きを行えるようになっています。
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平面図:
伝統的な建築では、座敷など、訪問者に対し重きが置かれていたものの、この邸宅では書斎とバーコラ、居間部分に陽の光が差し込むようになり、座敷部分は排除されています。竣工された時期に日本の建築の概念が伝統的なものから西洋風のものに大きく舵が切られ、この邸宅ではその流れを先どったものになります。
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書斎:
玄関脇に書斎が置かれ、配置的に応接間を兼ねていたと推測されます。また、床下の寄せ木細工も見ものになっています。室内はガラス窓が大きく設置してあるため、大変明るくなっており、窓上部部分は回転窓になっています。
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廊下と書斎の切れ目:
廊下部分も書斎も、また居間も、床部分は寄木で構成されていました。
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居間:
この邸宅の中心になる部屋で、左サイドが窓で囲まれており、非常に明るい部屋になっています。
また、窓部分には造り付けのベンチが配されており、窓からはパーゴラが見えます。また、食堂部分との間にガラス扉が設けられており、来客使者の多い時には2部屋をつなげて使用できるようになっています。
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食堂:
壁紙はピンクの花柄になっており、邸宅の中でも明るさを強調しています。
また、中央部分の作り付けの棚はハッチになっており、開口部は台所と繋がっており、直接食材などを提供できる仕組みになっています。
これにより、今までの人手がいる作業を大幅に簡素化できました。
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食堂のハッチ部分:
造り付けの家具になっており、こちらもアメリカより輸入。
ガラス部分は結霜ガラスになっており、冬の霜の様な模様がついたことからそう呼ばれました。
ガラス表面にニカワを用いて付けられた手作りのもので、現在では、このようなガラスが造られることは無くなった、大変貴重なものになります。
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キッチン:
流し台を挟んで、ガスオーブンと冷蔵庫が置かれ、流しの下には、作り付けの米櫃(こめびつ)が置かれています。
台所部分もアメリカ的な合理さが求められ、この邸宅からも伺い知ることができます。
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女中室:
女中の部屋で左側の壁には、女中さんがすぐ気づけるように、ベルが付けられています。
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浴室:
この時代は五右衛門風呂が主流でしたが、先述のようにアメリカから資材を輸入したこともあり、現代的な浴室になっています。
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トイレ:
トイレ部分は水洗になっており、邸宅完成時には、田園調布界隈は既に下水が完備されていたことを伺い知ることができます。
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寝室:
江戸東京たてもの園移築時に、現在の姿に戻された部屋。
当初は洋間だったものの、竣工からわずか数年で、和室に改変されました。寝室だけあって、先述の書斎とは打って変わり、柱や窓枠に茶褐色のワニスを塗り、室内はシックに仕上げています。
また、クローゼットも造り付けになっています。
【編集後記】
「田園調布の家」は、江戸東京たてもの園の建築物の中でも、大変魅力的なもので、田園調布の街の成り行きから調べたら、大変興味深い投稿になりました。
世田谷/大田区界隈には奥沢海軍村や成城など、魅力的な場所も多く、また気を改めて紹介できたらと考えています。